春秋学とはなにか?

長い伝統を持ち、世人の尊敬を集める一の学問に、安易な定義はできない。春秋学においてもまた然り。「春秋学とは何か」と問われるならば、「人によって異なる」と応えるのが最も親切な回答だろう。同時に、「どのようにすれば春秋学を修められるか」という問いに対しても、「立場によって異なる」と応えるのが正直な回答だろう。しかし簡単な定義を求められる場合には、どう応えればよいだろうか。それはこうである。「春秋三伝、就中春秋左氏伝を読むことだ。読んで事柄を覚え、諸国興亡の歴史を知ることだ」と。そして、この答えに反することを、以下に書いておきたい。


春秋学は、春秋経に秘められた孔子の大義を明らかにすることが目的である。では大義とは何か。いうまでもなく、大義の解明を目的に春秋を読む以上、春秋を読む前に大義が明らかになるはずはない。しかし歴代の研究によって、大略は了解されている。すなわち春秋の大義とは、王を尊び覇を黜け、善を褒めて悪を貶め、夏を内にして夷を外にすること、これである。したがって魯の歴史、列国興亡の跡、器物の名称、事跡の探求そのものは、春秋学の目的ではなく、それらは春秋の大義を明らかにするための補助的研究でなければならない。もし春秋の大義が明らかになるのであれば、列国興亡の跡を窮め尽くす必要はなく、器物や事跡の由来を明らめる必要もない。むしろ時間と労力の浪費を惜しみ、そららの探求はすぐにも止めるべきであろう。

これが春秋学の目的であるが、同時にもう一つ重要なことがある。春秋学の目的は、大略如上のものであるにせよ、畢竟それは読書人自身がつかみ取らねばならぬものであって、人の得た結論を読むのみにては、何の意味もないということである。自分自身が春秋の大義を捉えるために、優れた先人の遺産を参考にすることは、人間通有のものとして、やむを得ざるところの優れた行いである。しかしこれを顛倒させて、先人の遺産を参考にすれば大義が捉えられると考えるならば、もはやその人にとって春秋の大義は一片の知識に過ぎず、先人の知恵も価値なき糟粕となるであろう。したがって春秋学を志す場合は、みずから春秋の大義を摑むべく努力せねばならぬ。そうして始めて春秋学は有意義なものになるのである。

ではどうすれば春秋の大義を摑むことができるのか。これには伝統的に属辞比事と称される手法がある。この属辞比事も伝来ある方法論のため、人によって解釈が異なり、説明は難しい。しかし経文の文字と事柄を類比し、その意味するところを探るという程度に理解するのであれば、諸説はほぼ一致する。もちろん、その際、文字とは何であり、事柄とは何であるか、そして事柄と文字は異なるのか等々の疑問が直ちに浮かぶであろう。しかしそれらの探求は歴代経学者が知恵を絞り、なおかつ答えの出なかったものであり、ここに容易に説明することは憚られる。

さて属辞比事の方法は、経文の文字と事柄を類比することであると述べたが、それは具体的にどのような行為であろうか。これに対する説明は、公即位例とよばれるものを引用するを通例とするが、ここでは少し手順を代えて説明してみたい。

まず春秋経を開いてみる。そして意味を考えず、とにかく経文を読み始める。経文の分量は『論語』と同程度であるから、通読も難しくないなどう。もちろん春秋三伝を読んではいけない。それらは一切読まず、ひたすら経文だけを読むのである。春秋の経文は古いものだけに、少し気持ちの悪い語法もあり、まま意味晦渋のところもあり、実際に意味の取れない部分もある。しかしそれにはこだわらず、ただひたすら経文だけを読んでいく。

そうすると隠公から桓公、桓公から荘公に移るに従い、徐々に一定の型が見えてくるだろう。戦いの記事、会の記事、盟の記事、会盟してから戦う記事、災異の記事、等々に漠然と形のあることが分かってくる。さらに読み進めると、魯の君主の即位の年には公即位と書かれる場合が多いこと、頻出する諸侯の数は限られていること、諸侯の卒と葬が記されていること等々に気付くようになる。さらに読みするめると、もっと多くの型のあることが分かってくる。そうして経文を二~三回も読めば、春秋経にどのような記事が書かれているのか、漠然と分かるようになってくる。

春秋経の類型が大体分かるようになると、次に象徴的な記事を年代順に集めてみる。例えば、最も分かりやすいものの一つ、魯の君主の即位についての記事を集めてみると以下のようになる。

  • 隱元年春王正月
  • 桓元年春王正月公即位
  • 莊元年春王正月
  • 閔元年春王正月
  • 僖元年春王正月
  • 文元年春王正月公即位
  • 宣元年春王正月公即位
  • 成元年春王正月公即位
  • 襄元年春王正月公即位
  • 昭元年春王正月公即位
  • 定元年夏六月戊辰公即位
  • 哀元年春王正月公即位

晩出の君主の多くに「公即位」の三字が見られ、逆に僖公以前の君主には「公即位」の字を記すものが少ないことが分かる。また定公には「公即位」の三字が見られるものの、他の君主のごとく「春王正月」の下ではなく、「夏六月戊辰」という特殊な日付の下にあることも確認できる。なぜこのような異同があるのだろうか。単なる偶然だろうか、それとも何らかの意図が込められているのだろう、

また春秋時代には雩(大雩)とよばれる雨乞いの儀式があった。先ほどと同じように、「雩」の文字の掲載された経文を集めると、以下のようになる。

  • 桓五年秋大雩
  • 僖十一年秋八月大雩、十三年秋九月大雩
  • 成三年秋大雩、七年冬大雩
  • 襄五年秋大雩、八年九月大雩、十六年秋大雩、十七年九月大雩、二十八年秋八月大雩
  • 昭三年八月大雩、六年秋九月大雩、八年秋大雩、十六年九月大雩、二十四年八月大雩、二十五年七月上辛大雩季辛又雩
  • 定元年九月大雩、七年秋大雩、九月大雩、十二年秋大雩

春秋は都合二百四十二年の出来事を記したものである。その間、雩の祭を挙行したことは多かったであろう。しかるに経文には記述にばらつきが見られ、襄公以下には記載の分量が多い。また襄公二十五年には特殊な記載のされ方がしてある。これは偶然であろうか。それとも何らかの意図が込められたものであろうか。

このようにして関係のありそうな事柄を時間順に排列し、その意味を探るのが、属辞比事の典型的な方法である。

しかし属辞比事の結果をどのように理解するかは難しい。春秋は孔子が作ったものである。したがって上の如き経文の差異には、当然ながら何らかの孔子の作意を感じざるを得ない。さりとて、孔子の作意がいかなる意味のものであるかは、歴代の学者に定説を見ない。例えば上の公即位の記事に対して、公即位の三文字の有無を重視し、孔子が手を加えたと見るものもいる。また単なる儀礼上の問題と考えるものもいる。あるいは三文字の有無に直接意味を見出だすのではなく、象徴的に捉えるものもいる。このように同じく公即位の三字に意味を見たからといって、その理解の方法にはさまざまな立場があり得る。

また一つ孔子が手を加えたとする考えは、春秋学の有力な学説の一つであり、これを孔子の筆削とよぶが、これにも幾つかの立場がある。例えば孔子は何らかの意味を込めて公即位の三文字を筆削したが――あるときには公即位の三文字を書き、あるときはそれを削ったが――、それは褒貶を発したからである、すなわち公即位が記されていない魯の君主は褒められたのであり、公即位が記されていない魯の君主は貶されたのである(逆もあり得る)と考える立場がある。またこれとは異なり、孔子は意味を込めて公即位の三文字を筆削したが、それは貶したり褒めたりするためではなく、当時の事柄を正確に伝えるため、公即位の儀礼が行われなければ書かず、行われたならば書いたに過ぎないとする立場もある。また古代は歴史書の書き方(書法という)が厳密に決まっていた。ところが孔子の時代にはそれが曖昧になっていた。そこで孔子は書法にしたがって魯の歴史を記述し直したところ、書法に該当する事柄があった場合は公即位を書き、ない場合は公即位を書かなかった。したがってそこには古代に定められた書法の厳格な適応を見るのみで、それ以上の意味はないとする立場もある。

要するに、一つ孔子の筆削にしても様々な立場がある。そしてそのどれが正しいかは不明であり、春秋学を修めるもの自身が見定めなければならない。とはいえ、このような途方もない作業を独力で行うのは無謀であり、また無意味である。そこで登場するのが、孔子の格言を残したとされる春秋三伝および後学の研究成果である。

春秋三伝は、その出自が疑わしく、孔子に直結するものではなかろうが、孔子に近い時代のものとあって、後世の春秋学徒に最も尊敬された。上の公即位にせよ大雩にせよ、三伝に所説があるので、経文の理解にはまずもってこの三伝の所説を知ることから始めるのが普通である。しかし三伝には明らかな錯誤や矛盾が含まれている。したがって三伝の所説の当否を見極める必要が常に必要になってくる。そうした必要性から生まれたのは、陸淳の『春秋集伝辨疑』であり、劉敞の『春秋権衡』であり、葉夢得の『春秋三伝讞』であり、程端学の『春秋三伝辨疑』である。そしてこれらの成果を受けつつ、独自に春秋経文の意味するところを明らかにしたものが、孫復の『春秋尊王発微』であり、劉敞の『春秋伝』であり、胡安国の『春秋伝』等々の書物である。各々癖もあり、また偏りもあるが、このような書物を利用して、春秋経の意味するところを探り、最後に自分の力で春秋の大義を摑まねばならない。こうしてようやく春秋学を読んだことになる。

inserted by FC2 system