春秋諸侯興廃説

以下は『欽定春秋伝説彙纂』巻首下の王朝及諸侯興廃説、春秋一百二十四国爵姓を抜萃し、若干の筆削を加えたものである。レイアウトの関係上、表示方法は大幅に改めた。なお『欽定春秋伝説彙纂』同部分は、もと『春秋大全』を再編集して成ったものである。その他、詳細は杜預『春秋経伝集解』、陸淳『春秋集伝纂例』、程公説『春秋分記』、馬端臨『文献通考』封建考、顧棟高『春秋大事表』などを参照。

王朝及諸侯興廃説

姫姓。黄帝の末裔、后稷の子孫。后稷は邰に封ぜられた。夏の末期、后稷の子の不窋は失敗を犯し、西戎の地に逃亡した。不窋の孫の公劉は、邠に移った。公劉より九世の後、太王になった。太王は邠から岐山に移った。文王は天命を受けると、豊に移った。武王は商に打ち克ち、天下を平定すると、都を鎬に定めた。鎬は豊水の東部、豊は豊水の西にあり、相互に二十五里ほど離れている。平王は都を王城に移した。敬王はまた都を成周に遷した。平王の四十九年に魯の隠公が即位した。敬王の三十九年は獲麟の歳に当たる。これ以後、九王二百二十年を経て、赧王のとき、秦に滅ぼされた。

姫姓。侯爵。周の文王の第四子である周文公旦が封ぜられた国である。周公は大功労者であり、冢宰(宰相)として天子の側に仕えていた。そのため長子の伯禽を魯侯に封じた。曲阜を国都とした。伯禽から十三代目が隠公息姑である。その元年に『春秋』が始まった。それから二百四十二年の後、哀公蔣の十四年に「西のかた狩りし麟を獲た」ところで『春秋』は終わる。これ以後、九人の君主を経て、頃公讎のとき、楚に滅ぼされた。

姫姓。侯爵。武王の同母弟の叔度が封ぜられた国である。武王は商に打ち克つと、叔度を蔡に封じた。平侯は新蔡に移住した。昭侯はまた州来に移住した。これを下蔡と言う。宣侯の二十八年に魯の隠公が即位した。成侯の十年は魯の哀公十四年に当たる。その後、楚に滅ぼされた。

姫姓。伯爵。武王の同母弟の叔振鐸が封ぜられた国である。武王は商に打ち克つと、叔振鐸を曹に封じた。叔振鐸は太伯脾を生んだ。脾の九世の子孫が桓公終生である。その三十五年は魯の隠公元年に当たる。魯の哀公八年、曹の伯陽は宋に滅ぼされた。

姫姓。侯爵。武王の同母少弟の康叔が封ぜられた国である。武王は康叔を衛に封じた。文公は楚丘に移住した。成公はまた帝丘に移住した。桓公十三年に魯の隠公が即位した。出公十二年は魯の哀公十四年に当たる。これ以後、〔国勢は衰え、〕君号を「君」に格下げし、濮陽の土地だけを守っていた。秦の二世皇帝の時代、角は君主の位を廃され、庶人となった。

姫姓。侯爵。周の文王の子の叔繡が封ぜられた国である。魯の隠公七年、はじめて『春秋』に「滕侯が死んだ」と記された。それ以後、『春秋』は「滕侯」を「滕子」と記している。恐らく当時の周王に降格されたのだろう。『漢書』地理志には「滕は封ぜられてより三十一世、斉に滅ぼされた」とある。孔穎達や他の学者の多くも、これに拠っている。しかし『戦国策』には「滕は宋に滅ぼされた」とあり、『資治通鑑』『文献通考』も「宋は滕を滅ぼした」と言う。両説のどちらが正しいか不明のため、しばらく並記しておく。

姫姓。侯爵。周の武王の少子の唐叔虞の末裔である。成王は叔虞を唐に封じた。はじめは翼を都としていた。唐叔の子の燮父を晉侯とした。十世を経た後、昭侯のとき、昭侯は父の文侯の弟の成師を曲沃に封じた。これが桓叔である。昭侯から哀侯の代になると、晉は桓叔の孫の武公に滅ぼされた。武公は都を絳に移した。景公はまた絳から新田に移った。鄂侯の二年に魯の隠公が即位した。定公三十一年は魯の哀公十四年に当たる。それから六世の後、韓・魏・趙が晉の土地を三分し、君主の靖公倶酒を家人とした。

姫姓。伯爵。周の厲王の少子の友の末裔である。宣王の二十二年、友を鄭に封じた。幽王の内乱のとき、友は帑を虢と鄶に贈り、二国の地を取り、済西・洛東・河南・潁北・四水に囲まれた土地を新鄭と言った。荘公二十二年に魯の隠公が即位した。声公の二十年は魯の哀公十四年に当たる。後、韓に滅ぼされた。

姫姓。子爵。周の太王の長子の太伯は、季歴の邪魔にならぬよう蛮族の地に逃亡し、梅里に居住した。太伯が死ぬと、仲雍が後を継いだ。十七世の後、壽夢のとき、はじめて王と称した。その後、闔閭は大城を築き、その地を都とした。魯の成公六年、はじめて壽夢が『春秋』に登場した。夫差の十五年は獲麟の歳に当たる。魯の哀公二十二年、越の句踐に滅ぼされた。

姫姓。伯爵。周の同姓の召公奭の末裔である。武王は召公を薊に封じ、その地を北燕と言った。穆侯の七年に魯の隠公が即位した。献公十二年は魯の哀公十四年に当たる。六世の後、易王が即位した。王号を名乗ってから六世、燕王喜のとき、秦に滅ぼされた。

姜姓。侯爵。太公望の末裔である。祖先は四岳であり、禹の治水を助けて功績があった。虞夏の時代、呂に封ぜられた。商朝の末年、太公は魚釣から身を起こし、文王と武王の師となった。営丘に封ぜられ、斉侯となった。『漢書』地理志には「臨淄は師尚父の封ぜられた土地である」とあり、臣瓚は「臨淄は営丘のことである」と言う。しかしながら、はじめ斉は薄姑を都とし、その後に臨淄に移ったとされている。僖公九年に魯の隠公が即位した。簡公四年は魯の哀公十四年に当たる。その後、三君一百二年、康公貸が死ぬと、ついに田氏に併合された。

嬴姓。伯爵。顓頊の末裔で、その孫の女修の子に大業がいた。大業は大費を生み、禹の治水に功績があった。舜は鳥獣の飼育を命じ、嬴姓を与えた。これが柏翳である。柏翳から十九世の非子は、周の孝王のために汧水と渭水のほとりで馬を飼育した。馬は大いに繁殖した。そこで孝王は附庸の国を与え、秦に居らせた。非子の曾孫を秦仲と言う。秦仲は西戎で戦死した。その孫の襄公は西戎を討伐して功績があった。平王が東遷すると、秦は岐豊の土地を与えられ、諸侯の列に加わった。寧公は平陽に移り、徳公は雍に移り、献公は櫟陽に移り、孝公は咸陽に移った。文公の四十四年に魯の隠公が即位した。悼公の十一年は魯の哀公十四年に当たる。九世の後、孝公は商鞅を用いて霸を唱えた。その子の恵文君はみずから王号を称した。武王・昭襄王・孝文王・荘襄王と続き、始皇の時代に天下を統一した。二世皇帝のために滅亡した。

羋姓。子爵。顓頊の孫の重黎の末裔。高辛氏の火正となり、光を天下に行き渡らせ、祝融の称号を与えられた。その弟の呉回は後を継いで祝融となり、陸終を生んだ。陸終は六人の子を生んだが、最も下の子を季連と言った。季連の末裔の鬻熊は、周の文王・武王に仕えた。成王のとき、鬻熊の曾孫の熊繹を楚に封じ、子爵・男爵の田を与えた。熊繹は丹陽に移り住んだ。その後、郢を都とした。昭王は鄀に移った。最後は壽春に移った。武王の十九年に魯の隠公が即位した。恵王の八年は魯の哀公十四年に当たる。恵王以下、簡・声・悼・肅・宣・威・懐・頃襄・考烈・幽・哀・負芻の十二王を経た後、秦が滅ぼした。

子姓。公爵。商王帝乙の長庶子の啓を出自とする。微を食封としていたので、微子と言われた。周の武王は紂を誅殺すると、その子の武庚を商の後継ぎとした。しかし武庚は三監を率いて叛乱を起こしたので、成王は誅殺した。そこで微子を宋公に封じ、商朝のときと同じように湯王の祭祀・礼楽・車服を守らせ、王家の賓客として遇した。穆公和の七年に魯の隠公が即位した。景公三十六年は魯の哀公十四年に当たる。この後、王偃に至り、王号を称して伯を唱えたので、斉・魏・楚によって滅ぼされた。

姒姓。伯爵。武王は商に打ち克つと、夏の禹の末裔を捜した。東樓公を見つけたので、これを杞に封じ、禹の祭祀を守らせた。杜預は「杞国はもともと陳留の雍丘県に都を置いていた。桓公六年、淳于公が国を亡った際、杞はこれを併合し、都を淳于に置いたようである。その後、また縁陵に移った。襄公二十九年、また淳于に移った」と言う。樓公から四伝して武公になった。その武公の二十九年に魯の隠公が即位した。閔公六年は獲麟の歳に当たる。この後、楚に滅ぼされた。

媯姓。侯爵。帝舜の末裔。有虞に封ぜられた。有虞の末裔の閼父は、周の武王の陶正となり、物作りが巧かった。武王はこれを嘉し、元妃の娘の大姫をその子の満に与えた。そして満を陳に封じ、虞帝の祭祀を守らせた。桓公の二十三年に魯の隠公が即位した。閔公の二十一年は魯の哀公十四年に当たる。その三年後、楚の恵王は公孫朝に陳を滅ぼさせた。

任姓。侯爵。黄帝の末裔。奚仲は薛に封ぜられた。隠公十一年の「滕と薛が来朝した」に於いて、はじめて『春秋』に登場した。荘公三年の経文に「薛伯が死んだ」とあり、〔薛侯と記さず、薛伯と記すのは、〕恐らく当時の周王に降格されたのだろう。孔頴達と陸淳は「小国のため記録がなく、世次も不明である。誰に滅ぼされたのかも分からない」と言う。

曹姓。子爵。陸終の第五子の晏安を出自とする。武王は商に打ち克つと、その末裔の曹挾を邾に封じて、附庸の国とした。挾から儀父に至るまで十二世、はじめて『春秋』に登場した。魯の隠公元年、儀父と蔑の地で会盟を行った。北杏の会では斉の桓公に付き従い、子爵に進められた。荘公十六年、経文に「邾子克が死んだ」とある。これは儀父のことである。哀公十年、邾子益が魯に逃亡した。この後、楚に併合された。

嬴姓。子爵。少昊の末裔。武王は茲輿期を莒に封じた。莒の君主には、諡はないが、号はあった。茲輿期以来十一世、茲㔻父のとき、はじめて『春秋』に登場した。共公庚輿以来、国勢が衰え、もはや『春秋』に登場しなくなった。四世の後、楚に滅ぼされた。

小邾

曹姓。子爵。邾挾の末裔の夷父顔は周に功績があった。周はその子の友を郳に封じ、附庸の国とした。荘公五年、友の曾孫の黎来は、はじめて魯に朝した。斉の小白が霸を唱えたとき、郳の君主はこれに付き従い、子爵に進められ、はじめて諸侯の列に加わった。これを小邾子と言う。孔頴達と陸淳は「穆公の孫の恵公以後、『春秋』終了から六世の後に、楚が滅ぼした」と言う。

姜姓。男爵。斉と祖先を同じくする。武王は四岳の末裔の文叔を許に封じた。春秋の時代、国は小さく、しかも鄭に近かったため、鄭の圧迫を受けた。成公の十五年に葉に移り、昭公九年に夷――城父のこと――に移り、十一年に析――白羽のこと――に移り、定公四年に容城に移った。孔頴達は「文叔より荘公に至るまで十一世、はじめて『春秋』に登場した。元公の子の結の元年は獲麟の歳に当たる。戦国の初期、楚が滅ぼした」と言う。


附『春秋大全』諸侯興廃説

姜姓。侯爵。東莞劇県の出自。春秋の時代、かつて魯の娘を娶ったことがあり、王后を出したこともあった。魯の荘公の三年、斉が侵略したので、紀季は酅とともに斉に服属した。四年、紀侯は国を去った。

姫姓。公爵。太王の子の仲雍を出自とする。仲雍は季簡を生み、季簡は叔達を生み、叔達は周章と虞仲を生んだ。武王は商に打ち克つと、太伯と仲雍の末裔を捜した。まず周章を見つけ、呉の君主に封じた。また別に弟の虞仲を周の北に封じた。虞仲以来、諸侯の列に加わること十二世、虞公と言う者は貪婪で遠望がなかった。晉の献公は荀息の謀略を用い、賄賂として璧と馬を虞公に贈り、〔隙を衝いて〕虞の国を奪った。

姫姓。公爵。王季の子の虢仲を出自とする。文王の弟である。仲と虢叔は文王の卿士として王室に功績があり、その誉れは盟府に記録された。文王もこの二人の弟を愛した。二人を二虢と言った。武王は商に打ち克つと、仲を弘農に封じた。周室が東遷しても、虢公忌父と虢公林父はまだ天子の宰相に止まった。魯の僖公の五年、晉の献公は道を虞に借りて虢を滅ぼし、その地を晉に併合した。


春秋一百二十四国爵姓

爵姓具者五十国

魯:姫姓/侯爵蔡:姫姓/侯爵曹:姫姓/伯爵衛:姫姓/侯爵滕:姫姓/侯爵
晉:姫姓/侯爵鄭:姫姓/伯爵呉:姫姓/子爵燕:姫姓/伯爵虞:姫姓/公爵
虢:姫姓/公爵祭:姫姓/伯爵邢:姫姓/侯爵凡:姫姓/伯爵滑:姫姓/伯爵
原:姫姓/伯爵荀:姫姓/侯爵芮:姫姓/伯爵息:姫姓/侯爵隨:姫姓/侯爵
巴:姫姓/子爵賈:姫姓/侯爵郕:姫姓/子爵斉:姜姓/侯爵秦:嬴姓/伯爵
楚:羋姓/子爵宋:子姓/公爵杞:姒姓/伯爵陳:媯姓/侯爵紀:姜姓/侯爵
鄧:曼姓/侯爵薛:任姓/侯爵州:姜姓/公爵梁:嬴姓/伯爵宿:風姓/男爵
南燕:姞姓/伯爵莒:嬴姓/子爵邾:曹姓/子爵徐:嬴姓/子爵越:姒姓/子爵
小邾:曹姓/子爵鄅:妘姓/子爵鄫:姒姓/子爵許:姜姓/男爵胡:媯姓/子爵
夔:羋姓/子爵郯:嬴姓/子爵萊:姜姓/子爵舒鳩:偃姓/子爵偪陽:妘姓/子爵

有爵無姓者十五国

唐:侯爵弦:子爵。或隗姓頓:子爵沈:子爵。或嬴姓譚:子爵。或子姓
宗:子爵䢵:子爵白狄:子爵頼:子爵肥:子爵
戎蠻:子爵麇:子爵。或祈姓鼓:子爵。或祈姓穀:伯爵。或嬴姓舒:子爵

有姓無爵者十七国

魏:姫姓耿:姫姓霍:姫姓郜:姫姓韓:姫姓。或侯爵
焦:姫姓楊:姫姓淮:姫姓密:姫姓黄:嬴姓
羅:熊姓。或偃姓申:姜姓夷:妘姓向:姜姓鄋瞞:漆姓
舒庸:偃姓戴:子姓

爵姓倶亡者三十二国

江:或嬴姓権:或偃姓
六:或偃姓
項:或姑姓
蓼:或偃姓
無終蓐收於餘丘英氏
根牟鮮虞陸渾桐:或偃姓

附庸九国

顓臾:風姓須句:風姓葛:嬴姓任:風姓
蕭:或子姓
inserted by FC2 system