総説

経学家に門戸の見が生じたのは春秋三伝からである。しかし最後には世の中に並び立つことができた。その間になされた諸学者の議論は、中唐以前は左氏が優勢であり、啖助・趙匡から北宋までは公羊と穀梁が優勢だった。

〔北宋の〕孫復や劉敞らは「伝を棄てて経に従う」と言ったが、棄てたのは左氏の事迹と公羊・穀梁の日月の例だけであった。彼らは〔春秋学伝来の褒貶の中、〕貶ばかりを大きく取り上げ、許すこと少なく譏ること多き解釈を作った。これは公羊と穀梁のやり方をまねたもので、ちょうど鄧析を誅殺するのに〔鄧析の作った〕竹刑を用いた逸話になぞらえることができるだろう。そもそも事迹を捨て去ってどうやって事件の是非を判断するというのか。証拠もなく〔是非を〕判断するというなら、それは春秋を占いに見立てたに等しいではないか。聖人は人が過ちを犯すことを禁じはするが、人の優れた行いを褒めもするのである。ましてや経書には褒めたところが少なくないのだ。ところが彼らは筆を手に文を綴っては、あらゆる人間に筆誅を加えている。春秋は無辜の人を罪に陥れるために作られたものだとでもいうのだろうか。彼らは「夏時を用いて正朔を改めた」、「尊号を削って天王を貶した」などと言っているが、春秋はこれほどに僭越なことをしでかした書物なのだろうか。

波に沿うて返らず、この種のものは世に広がり、古代の学説が世間に流れても、彼らの学説の全てが廃れてしまうことはなかった。このため〔この度の『四庫全書』の編纂に際しては、〕経文の解釈が適切で根拠があり、穏当で道理にかったものを採用することにした。もし欠点と美点とが互いに存在する場合は、その長短を〔提要で〕明らかにして本文を〔『四庫全書』に〕残すことにした。空談や臆説を用い、私意でもって聖人の作りたもうた経書を乱している場合は、書名のみを残すことにした。

六経の中、易はあまねく道理を包み込むがゆえに、あらゆる物事を解釈することができ、春秋は事柄をことごとく備えるがゆえに、人ごとに解釈を立てることができる。このため一知半解に陥り、議論が生じやすく、著作の豊富なこと、この二経を最多とする。随って採用には細心の注意を払わねばならぬのである。

『四庫全書総目提要』巻二十六

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