春秋類案語2

さて明代の科挙は元代の制度を襲い、経書の注釈には宋代のものを用いた(*1)。しかし程子の『春秋伝』は完成せず(*2)、朱子も春秋に解釈を施さなかった。そのため胡安国の学問が程子にもとづき、張洽の学問が朱子にもとづくとして、春秋はこの二者の解釈を用いることにした。これは二人の学問の淵源を重んじたからであり、二人の解釈が他の学者よりも優れていたから選ばれたわけではなかった(*3)。ところがこれ以後、張洽の解釈は分量が多いからという理由でじょじょに廃れ、胡安国の解釈だけが通行するようになった。しかしこれも科挙の試験官や受験者が簡便に走ったがゆえのことであって、法律で定めたものではなかった。

また春秋以外の経書の場合、解釈を一つに絞ったとはいえ、問題を出すときは経文を軸にしていた。しかし春秋経だけは胡安国の解釈の意味を問うことに主眼が置かれていた。このため設問に経文を用いはするものの、ただ経文は胡安国の解釈の標識――某公・某年・某事を知らせるもの――になるだけであった。張朝端の『貢挙考』(*4)には明朝一代の科挙の出題が列挙されている。それによると他の経書はどれも経文の首尾が完具しているのに、春秋だけは設問中に二三文字――「密に盟す」や「夾谷」のように――が並べられているだけである。経文を判断の基準としていなかったことは明白である。これでは春秋が学官に並んでいるとはいっても、実際には胡安国の解釈を経文とみなしたようなものであり、孔子はただ虚名を与えられたにすぎない。明朝の経書解釈が荒唐無稽に流れたのも怪しむに足りない。

『欽定春秋伝説彙纂』(*5)は諸家の学説を総括し、聖人の発言に照らしてそれらを折中したものだが、そこでは安国の誤謬が逐一駁正されている。これによっても真理というものは決して覆い隠すことのできぬものだということが分かるだろう。

このたび〔『四庫全書』を編纂するにあたり〕現存の書物を検査し、明代の春秋学説についてはその多くを廃棄した。これは科挙の俗学でもって、聖人の作りたもうた経書の本旨を蝕みたくなかったからに他ならない。

『四庫全書総目提要』巻三十一(春秋類)



(*)本文は『四庫全書総目提要』春秋類存目2の末尾、随って春秋類の最後に附されたもので、『四庫全書』春秋類正目に明代の経解が少ない理由を論じている。
(*1)明朝初期の科挙では、春秋経義の参考書として胡安国『春秋伝』と張洽『春秋集注』を用いた。後、『春秋大全』の成立をもって『大全』が参考書になった。『大全』は胡安国『春秋伝』を解釈の基準としたものであったため、結果的に胡安国『春秋伝』が明朝科挙の参考書になった。
(*2)程頤の『春秋伝』を指す。同書は未完の書だった。
(*3)胡安国は程頤の私淑の弟子であり、張洽は朱熹の弟子である。簡単に言うと、胡安国と張洽(特に胡安国)の春秋解釈には相当問題があるので、科挙の参考書とすべきではなかったと言いたいのである。
(*4)張朝瑞の『皇明貢挙考』を指す。
(*5)清朝初期に編纂された勅撰の春秋解釈書。同種の『日講春秋解義』『欽定春秋伝説匯纂』とならび、清朝の公式見解を示した書物。胡安国『春秋伝』の誤謬を厳しく指弾した書物として有名である。

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