陸淳『春秋集伝纂例』十巻

○浙江汪啓淑家蔵本

唐の陸淳の撰。師の啖助と趙匡の説を通釈したものである。助、字は叔佐、もと趙州の人。関中に移り、潤州丹陽県主簿になった。匡、字は伯循、河東の人。洋州刺史になった。淳、字は伯沖、呉郡の人。給事中になった。後、憲宗の諱を避け、質と名を改めた。その生涯は『唐書』儒学伝に見える。

『二程遺書』、陳振孫の『書録解題』、および朱臨の手になる本書の後序には「淳は助と匡を師とした」とある。また『旧唐書』には「淳は匡を師とし、匡は助を師とした」とあり、『新唐書』には「趙匡と陸淳は助の高弟である」とある。しかし呂温の文集には「代人進書表」という一文があり(*1)、そこには「啖助を厳師とし、趙匡を益友とした」とある。また淳みずから「修伝始終記」(*2)を作ったときには、助のことを「啖先生」と言い、匡のことを「趙子」とも「趙氏」とも言っている。「重修集伝義」(*3)でも「淳は筆と紙を手に啖先生の傍らに侍すること十有一年」と言っており、匡に言及するところがない。また柳宗元は淳の墓表を作ったが(*4)、そこでも助と匡を淳の師友だと言っている。ならば当時における啖助と趙匡の関係は明白である。〔旧唐書』の編者〕劉昫以来の学者は事実を違えて伝え聞いたのである。

助の春秋学は三伝の得失を調べ、その遺漏や闕失を繕うことに力点がある。このため先代の学者と意見を異にすることが多い。例えば「左伝は丘明の著作ではない。『漢書』には『丘明は魯の曾申に伝え、申は呉起に伝え、起から六伝して賈誼に伝わった』などの説が見えるが、それらはすべてこじつけである。公羊の名は高、穀梁の名は赤と伝えられるが、恐らくは間違いであろう」という(*5)。また「春秋の文章は簡易であるため、先代の学者は各々一つの伝を守り、あえて三伝を疎通させようとせず、たがいに批判しあった。このため春秋学の弊害はさらにひどくなった」(*6)、「左氏伝は周・晉・斉・宋・楚・鄭の事迹を特に詳しく述べている。これは後世の学者が師から授けられた〔各国の歴史書〕を敷延し、年月順に編纂して伝えたからである。また各国の卿たちの家伝や卜書・夢書・占書・縦横家・小説家の書物を取り混ぜている。だから事迹を論ずること多岐にわたるが、経文の解釈は極めて少なく、公羊と穀梁が経文に密着してその意味を説いたのには及ばない」とも言っている(*7)。これらの議論はいずれも偏った見方であり、ために欧陽修(*8)と晁公武(*9)らの意に満たなかった。しかし程子は「はるか春秋諸学者の上にある。〔未だ聖人の蘊奥を完全に明らめ尽くすことはできていないが、〕異端を排除し、正しい方法を導いた功績はある」と言った(*10)。三伝を棄てて経文の本義を追求したやり方は、確かに宋人の先河を導いたものである。臆断の弊害を生んだその過失は覆うべくもないが、〔三伝にまま存在する〕牽強付会な解釈を論破した功績は没すことのできぬものである。

助の書はもともと『春秋統例』と名づけられ、わずか六巻であった。その死後、淳と遺児の異が遺文を集め、匡に遺書を増補改訂するよう求めた。そこで始めて『纂例』と名づけられた。大暦乙卯の年に完成し、全四十篇十巻とした。『唐書』芸文志も同じである。この本の巻数とも一致している。恐らく来歴のあるものなのであろう。

本書の第一篇から第八篇までは全書の総論であり、第九篇は魯十二公およびその系譜であり、第三十六篇以下は経文と伝文に見える文字の脱謬および人名・国名・地名をまとめたものである。筆削の例を発明した部分は中間の二十六篇だけである。袁桷の後序(*11)には「本書は久しく世間に流通していない。〔我が家に〕伝わるものは宝章桂公の校本である。蜀にも小字本があると聞くが、遺憾ながら未見である」とある。呉萊(*12)と柳貫(*13)の後序にも「平陽府で刊行した趙秉文の家本――金の泰和三年の礼部尚書だった――を入手した」とある。元の時代にもう稀覯書であったものが流伝して現在に伝わったのである。天下の孤本と呼ぶべきものであろう。(*14)

『四庫全書総目提要』巻二十六



(*1)『呂衡州集』巻4の代國子陸博士進集註春秋表を指す。
(*2)『纂例』巻1の修伝終始記第八を指す。
(*3)『纂例』巻1の重修集伝義第七を指す。
(*4)『柳河東集注』巻9の「唐故給事中皇太子侍読陸文通先生墓表」を指す。
(*5)『纂例』巻1の趙氏損益義第五に見える。
(*6)『纂例』巻1の啖氏集伝注義第三に見える。
(*7)『纂例』巻1の三伝得失議第二に見える。
(*8)『新唐書』巻200(啖助伝)の賛に見える。
(*9)『読書志』巻3の春秋微旨六巻春秋辨疑1巻の案語に見える。
(*10)『河南程氏文集』巻5の南廟試策第二道の対に見える。
(*11)袁氏の後序は古経解彙函本、経苑本、および四庫本に見えない。(*14)を参照。
(*12)『淵穎集』巻12の春秋纂例辨疑後題に見える。
(*13)『柳待制集』巻18の記旧本春秋纂例後に見える。
(*14)以上諸家の評は『経義考』巻176に見える。ただしそこでは『新唐書』の賛は宋祁と正しく表記されている。

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