陸淳『春秋集伝辨疑』十巻

○江蘇巡撫採進本

唐の陸淳の撰。啖助・趙匡両氏の三伝駁正の発言を叙述したものである。本書について、柳宗元の手になる淳の墓誌には『辨疑』七篇とあり、『唐書』芸文志も同じく、呉萊の序文も七巻とする。ところがこの本は十巻である。誰が分けたものか不明である。刊本に見える萊の序文の末尾には、延祐五年十一月の集賢学士の克酬(原注。原本は「曲出」に作るが改正する)の発言を付しているが、そこには「唐の陸淳の著書――『春秋纂例』『辨疑』『微旨』の三書は後学に有益である。そこで江西行省に上梓するよう求めた云云」とある。分巻されたのはこのときであろうか。

淳の『纂例』は、〔その師である〕啖助が経文を逐条列挙し、みずから筆削の主旨を明らかにしたもので、三伝批判の大意を挙げたに止まっている。そこで本書は三伝の学説の中、『纂例』に採用されなかったものを取り上げ、その間違いを列挙し、一字一句につき批判を加えたものである。だから「辨疑」と名づけたのである。引用は趙匡の学説が多く、啖助はそれに次ぐ。冒頭に凡例一篇計十七条を冠しているが、〔それは啖助が『集伝』を作ったとき〕経文や伝文を節録したのを弁解したものである。三伝の学説の採用不採用については、経文の年月にしたがって説明を加えている。

本文中、「鄭伯克段」の左氏伝に対して、啖氏は「鄭伯は母を幽閉などしなかったろう」と言うが、これは臆断の嫌いなしとしない。このようなやり方を認めると、信頼できる歴史書などなくなってしまう。まして大隧の古跡は『水経注』に明記されてある。これでは左氏の虚言だと言い張ることはできまい。この種の歴史書を無視する論法は、伝統に泥み、是が非でも三伝を正しいと言い張ろうとすること以上に弊害を生むだろう。(*1)

また「斉衛胥命」の伝(公羊および穀梁)は『荀子』と同じである。その当時、聖人孔子の生きた時代と近かったのだから、きっと何らかの伝承があったのだろう。ところが趙氏は「無礼を譏ったのである」とする。この種の論法はあら探しの譏りを免れない。(*2)

また「叔姫歸于紀」に対して、穀梁伝は「経文に『逆』を言わぬのは、卑しきものが逆(むか)えたからである」と言う。ところが淳は「逆えたことを言わぬのは、夫(おっと)みずから逆えたからである」と言う。そもそも礼に於いて、媵を送ることはあっても、媵を迎えることはない。随ってこれは穀梁伝の間違いであろう。しかし礼として、みずから妻を迎えることはあっても、みずから媵を迎えることはない。ならば淳の説も当を得たものと言えぬ。この種の論法は相手を批判すればするほど支離に陥るものである。(*3)

しかし左氏伝は事実を根拠としてはいても、論述に粗雑なところが多い。逆に公羊伝と穀梁伝はいつも曲折を吐き、中でも公羊は特にひどいものがある。漢代以来、学者は専門を守り、甘きを論ずるものは辛きを忌み、赤を認めるものは白を譏った。本書と『微旨』が世に出て以来、三伝の誤謬を攻撃し、それを利用すること(*4)、往々にしてその核心を衝くものがあった。美点と欠点が並び存するとはいえ、その核心について見れば、確かに漢代以来の学者が未だ発見し得なかったものがある。根拠のない空論を振りし、末節を争うような〔末流の〕学者と同列に論ずることはできないのである。

『四庫全書総目提要』巻二十六



(*1)以下は春秋始まってすぐ見える鄭伯(鄭の莊公)とその弟の公子段との争いを前提に置いた論述。詳細は『左氏伝』隠公元年伝を参照のこと。『左氏伝』の記事を簡単に説明すると、鄭の莊公が即位した後、弟の公子段と権力闘争を始めたが、兄弟の生母は弟に加担した。後、兄の莊公は弟の公子段を追放(または殺害)するに至り、弟に加担した生母に対しても、黄泉の国でなければもう面会しませぬと言って幽閉した。しかし莊公の生母に対する情愛は絶ちがたく、潁考叔の助言を得て、地下道を掘って(黄泉の国になぞらえて)生母に面会し、親子のわだかまりは解けたという。この時の地下道を隧(大隧)と言った。この『左氏伝』の解釈に対し、啖助は『辨疑』巻1の鄭伯克段于鄢条に於いて、鄭の莊公は一時の迷いで弟の訓育を誤ったに過ぎぬのだから、生母を幽閉することなどあり得ぬと論断した。この啖助の見解に対し、四庫官は『左氏伝』の生母幽閉事件に登場する「大隧」は、『水経注』(古代の地理書)に確かに存在するのだから、『左氏伝』のエピソードが全くのニセモノだとは考えられない。啖助は自分の思いこみを根拠にしており、その正当性を認められない。自分に都合の悪い史実はすべて間違いだというような論法を認めては、あらゆる歴史書は無意味になってしまう。これは伝統的学説を盲信する学者よりも危険なやり方だ、と主張したのである。
(*2)胥命は桓公三年に見える経文の文句。四庫官の発言は省略が多すぎて、三伝の解釈を知らない人には理解できないものになっている。趙匡は『辨疑』巻2の桓三年齊侯衞侯胥命于蒲条に於いて、「会も遇も盟を言わぬ。会や遇も〔胥命と同じく〕口約束だけですますものだ。なぜこの〔胥命の〕経文だけを特別視できよう。また〔斉侯と衛侯の〕二君は賢君といえず、特異の事迹もなかった。経文から判断すれば、〔胥命と書いてあるのは〕斉侯と衛侯には人君として行うべき礼がなかったことを譏っただけだ」と批判した。この趙匡の見解に対し、四庫官は『春秋経』が成立して以後、孔子の遺志は弟子達に伝えられたはずだが、その遺志は戦国末期にはまだ残っていたはずだ。その戦後末期の大儒である荀子には「春秋は胥命を善しとしている」(大略篇)とある。ならば胥命を善と理解するのは孔子の遺志と認めることができ、趙匡のような勝っては発言は慎むべきだ、という。四庫官からすれば、趙匡は無理矢理でも三伝の間違いを見つけ出し、別の解釈を導こうという姿勢があるように見えたのである。なお現在では『荀子』大略篇は成立の遅い篇とされている。
(*3)叔姫云々は隠公七年に見える経文。
(*4)原文「抵隙蹈瑕」:抵隙は間違いを批判すること、蹈瑕は失敗を利用すること。直後の「往往中其窾會」と併せて、「陸淳らの三伝批判のポイントはなかなか核心をついていた」という意味にとった。

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