馮継先『春秋名号帰一図』二巻

○両江総督採進本

蜀の馮継先の撰。陳振孫の『書録解題』には「本書に列べる人名は、周が第一、魯が第二、斉が第三、晉が第四、楚が第五、鄭が第六、衛が第七、秦が第八、宋が第九、陳が第十、蔡が第十一、曹が第十二、呉が第十三、邾が第十四、杞が第十五、莒が第十六、滕が第十七、薛が第十八、許が第十九、そして雑小国が第二十である」とある。しかし『崇文総目』には「本書は官・諡・名・字を初名の左側に集めたものである」とあり、『文献通考』にも李燾の言葉を引いて「むかし左丘明が春秋を伝えたとき(*1)、列国の君臣の名字を統一せず、多い場合には呼称が四つも五つもあった。そのため学問を始めたばかりのものは、呼称が紛らわしく覚えにくいのに苦しんだ。継先は同じ呼称を集めて一百六十篇とした」とある。この二つの発言から推測すれば、継先の原本はもともと名前を横に傾斜して列記したもので、表譜のような体裁であり――だから「図」と名が付けられた――、それを一百六十篇に分けていたと思われる。ところが現行本の体裁は振孫の発言と同じで、一人を一条としている。既に初名の左側に異名を集めたものではなく、またいわゆる一百六十篇でもなく、『崇文総目』や李燾の所説と全く異なっている。

岳珂の版行した『相台九経例(刊正九経三伝沿革例)』には、「『春秋名号帰一図』二巻は版本間に錯誤が多い。むかし京本、杭本、建本、蜀本によって校勘してみたところ、例えばこんな間違いがあった。――氏名に異同があっても本当は複数人なのに、間違えて一人としている。名は違っても実は同一人であるのに、間違えて二人としている。ある国から他国に嫁いだとき、〔女性を〕両国に記録している。某公や某年の指摘が経文や伝文と異なっている。伝文を経文と取り間違え、注文を伝文と取り間違えいる。部首の類似から魯魚の誤りを犯している。行が連続して区別がなくなっている等々。この度すべて間違いを訂正し、かつ行を分けて別記した」とある。ならば現行本は珂が校正配列したもので、李燾以前の旧本ではない。燾の発言によると、「宋の大夫の荘菫と秦の右大夫の詹は、もともと左氏伝に「父」の字など記していない。しかし継先は軽々しくこれを増加している。(*2)他にも子韓晳は斉の頃公の孫だとされており、『世族譜』も左氏伝と同じ立場である。しかし継先は韓子晳だと考え、楚と鄭にいる二人の公孫黒と同一篇に入れている(*3)」とある。しかしこの本を調査したところ、そのような文章はなかった。ならば珂が削除したのは明白である。

『四庫全書総目提要』巻二十六



(*1)左氏伝を作ったという意味。
(*2)荘菫の名は昭公21年左氏伝、右大夫詹は襄公11年左氏伝に見える。
(*3)子韓晳の名は昭公14年左氏伝に見える。同一篇云々の原文は「與楚鄭二公孫黑共篇」となっている。四庫官の指摘の通り、現行本と体裁が異なるため、「共篇」の意味はよく分からない。なお鄭と楚にいる公孫黒は、鄭の公孫黒と楚の公孫黒肱の二人を指し、いずれも子晳と呼ばれる人物である。

inserted by FC2 system