孫復『春秋尊王発微』十二巻

○内府蔵本

宋の孫復の撰。復、字は明復、平陽の人。生涯は『宋史』儒林伝に詳しい。李燾の『続資治通鑑長編』によると、「殿中丞(*1)・国子監直講の孫復は春秋を修めたが、その学説は三伝とその注に惑わされることなく、発言は簡潔明瞭で、経の本旨を得たものが多かった。復が病に倒れると、枢密使の韓琦は皇帝にこう助言した。――書記と紙を与え、学問の成果を記録させるべく、復の門人の祖無択を家に遣わされますように、と。かくして十五巻の書物を得たので、これを秘閣に収蔵した」とある。しかし本書は十二巻である。『中興書目』によると、復には別に『春秋総論』三巻があったという。恐らく両著を合せて十五巻としたのだろう。『総論』は既に散佚し(*2)、ただ本書だけが残っている。

復の学説は、上には陸淳を淵源とし、下には胡安国を導いたが、それは春秋に貶したところはあっても褒めたところはないという(*3)、主として厳罰主義(*4)を重んじたやり方であった。晁公武の『読書志』は常秩の発言を引き、「明復の春秋学は商鞅の法のようなものだ。灰を道に棄てたものは処罰され、歩が六尺を超えたものは誅罰される」と言っている。確かにその通りであろう。しかし宋代の学者は厳罰主義を喜び、かえってこれを称讃しあった。波に沿うて返ることなく、ついに孔子の〔是々非々を主眼とした〕筆削の法を曲げ、春秋を冤罪の書物にしてしまった。そもそも春秋の意義を知った人として、孟子以上のものはいない。その孟子にして「春秋が作られて乱臣賊子は恐懼した」というにすぎないのである。もし〔春秋の載せる〕二百四十年のあいだ、すべての人間が乱臣賊子だったとでもいうのなら、復の所説は当たっている。しかし全てが乱臣賊子でないならば、聖人はきっと〔すぐれた人間や事柄を春秋に〕記録したであろう。それがなぜ天王から諸侯・大夫に至るまで、あらゆる人間、あらゆる事柄に誅罰が加えられたなどということになろう。〔聖人の微旨を〕厳しく求めすぎたため、かえって春秋の本旨を失ったのは、実に復から始まったものである。たしかに復の所説には、人間のあり方を弁別し、紛らわしい事柄を明白にしたところがあり、〔天下国家の〕興亡治乱の契機についても前人未踏の学説を提起したところがある。しかし総じて言うなら、やはりその功績が罪過を補い得ていないのである。これ以後、春秋を修めたもので厳罰主義を用いた学者は、大概みな本書を根拠とした。だから特に本書を『四庫全書』に収録し、その由来を明らかにするとともに、右の如くその得失についても詳細に論じておく。

程端学によると、『尊王発微』と『総論』の二書のほか、別に『三伝辨失解』があったと言う。朱彝尊の『経義考』もこれに依っている。しかしそのような書物は歴史書に記録がなく、他の学者も言及していない。『宋史』芸文志と『中興書目』によると、王日休の『春秋孫復解三傳辨失』四巻が見える。端学は間違って日休の著書を復の著作と考えたのだろうか。それならば日休の書は復を反駁した書物であって、復の著書ではないことになる。

『四庫全書総目提要』巻二十六



(*1)殿中丞:原文は「中丞」に作る。『長編』巻186には「殿中丞」とある。宋代で単に中丞というと御史中丞を指すが、孫復が御史中丞になった形跡はない。
(*2)『総論』は『春秋会義』に引用を見る。当然ではあるが『尊王発微』と同趣旨の論を展開している。
(*3)ふつう春秋には褒貶があるとされる。つまり春秋二百四十二年の出来事の中、善は褒め、悪は貶したとされる。しかし孫復は、春秋は聖王の理想郷が崩れ、戦国の地獄に至る過程にある。ならば春秋におこった出来事はすべて理想郷から地獄へ至る過程として捉えられるべきであり、聖人もそのように考えたはずだ。随って、春秋には善などなく悪しかない。ならば春秋に載せるあらゆる事柄はすべて聖人が貶したものである、と考えたのである。
(*4)原文「深刻」。適訳とは思わないが、深刻では意味が分かりにくいので敢えて「厳罰主義」の訳語を当てた。

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