王晳『春秋皇綱論』五巻

○内府蔵本

宋の王晳の撰。みずから太原の人間とするほか(*1)、その生涯の詳細は分からない。陳振孫の『書録解題』には「太常博士になった」とあるが、龔鼎臣の『東原録』によると、真宗の天禧年間に銭惟演が曹利用と丁謂を朝廷にひき留めたとき(*2)、「晏殊は翰林学士の王晳に語った」とある(*3)。ならば太常博士で終わったわけではない。王応麟の『玉海』には「至和年間、晳は『春秋通義』十二巻を著した。これは三伝注疏と啖助・趙匡の学説にもとづいたものである。それらの所説の中、適切なものは経文の下に配置し、妥当な解釈がない場合は自分の考えを示した。これ以外に『異義』十二巻と『皇綱論』五巻があった」とある。既に『通義』と『異義』は散佚し、本書だけが残っている。本書には総計二十二の論述があり、いずれも孔子の筆削の主旨を明らかにし、三伝と啖助・趙匡らの是非を弁駁したものである。(案語。本書は趙匡のことを全て「趙正」と記述する。これは太祖〔趙匡胤の「匡」〕の諱を避けたものだろう。本書の尊王下篇に『論語』を引用して「天下を一正す」(*4)とするのも、これと同じである。)

本書は明白平易な発言が多く、穿鑿附会のところはない。例えば孔子修春秋篇に「もし春秋が乱臣賊子を恐懼せしめるためだけにあるというなら、賢者を尊び、善人を称美するという春秋の主旨に欠けるところがある」とあるが、これなどは孫復らの春秋には貶すことはあっても褒めることはないという学説(*5)を破るに足るものがある。また伝釈異同篇に「左氏は魯国の歴史書を閲し、諸種の学説を兼ね備えたもので、春秋時代の事迹を伝えること甚だ完備している。しかし経書の外に立って一書を成しており、異説に心を惑わせ、史料の取捨にも不適切なものがある。聖人の微旨を解釈するに至っては、頗る粗略なところがある。左氏伝は発端と結末のあらましが具備しているので、恐らく一人の手になったものであろう。公羊伝と穀梁伝は議論を根本としており、諸学者の説を選んで経文の下に繋いでいる。だから詳細に事迹を語り得ない反面、聖人の微旨については左氏伝よりも深く探ったものが多い。しかし曲説や無意味な学説、浅薄な発言があちこちにある。多くの学者の講述から生れたからであろう」とある。また「左氏伝は一時の言動の善悪や卜筮・呪術などを用いて人の禍福を予測し、予測はすべて的中していたと言うが、これは左氏伝の弊害である。だから〔春秋を読むものは〕左氏伝の文章〔から正しい部分〕を選び、経文の主旨を理解しなければならない。例えるなら、宝玉に疵があっても、疵に目を瞑って玉を用いればよいだけであって、玉そのものを棄ててしまってはならないようなものである。公羊と穀梁の二伝についても同様である」とも言う。これらも孫復らの全く三伝を捨て去るという学説(*6)を破るに足るものである。宋代の春秋学者の中にあって、古代以来の立場を失わなかったものというべきであろう。

しかし郊禘篇に「周公は〔王の祭祀である〕郊・禘を行ってもよい。成王が〔周公に郊・禘の祭祀を〕許可したのは正しく、また魯国がこれを用いるのも僭礼ではない」というところ、また殺大夫篇に「およそ経文に『大夫を殺した』と書かれたものは、すべて大夫――機を見て〔殺される〕前に国外に逃げなかった――を処罰したものである」というのは、偏った見方であり、聖人の教戒とみなすことはできない。

『四庫全書総目提要』巻二十六



(*1)通志堂本に「太原王晳」とあることによるのであろう。
(*2)『東原録』によれば、余命を知った真宗が曹利用と丁謂を排斥しようとしたとき、銭惟演が二人を庇って朝廷に留めたとある。以下の引用はそのときの言葉。
(*3)四庫本『東原録』には「晏相嘗説與王哲學士」とあり、提要と微妙に誤差がある。
(*4)『論語』本文は「天下を一匡す」に作る。
(*5)孫復『尊王發微』の四庫提要を参照。
(*6)春秋三伝を一切用いず、春秋経文のみでその意味を読み解く立場を指す。宋代以後の主流的立場の一つ。

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