『春秋通義』一巻

○両江総督採進本

著者の姓名は記されていない。『宋史』芸文志によると、蹇遵品・王晳・家安国・邱葵に『春秋通義』があったが、それらの書物はすべて現存しない。蹇氏と王氏の著書は各十二巻、家氏の著書は二十四巻、邱氏の著書は二巻である。本書は一巻を残すにすぎないが、総計四十八条ある。本編冒頭に小序が冠され、「孔子は春秋に手を加えたが、魯国の歴史書に依拠し、そこに新たな意味を加味したものである。正例はこれを筆にのぼし、通常の事柄は削除した。また誤謬や乖離があれば訂正した。別にこれをまとめて特筆と題する」と言い、小序の最後に「特筆」の二字を標題として出している。ならば本巻は『通義』の一部なのであろう。ただ四人の中の誰の著書であるかは分らない。

しかしながら〔特筆についてまとめたとは言うものの、〕星隕如雨の一条(*1)について、公羊伝は「不修春秋(*2)には『隕星不及地尺而復(星隕り地に及ばざること尺にして復る)』とあったが、君子がこれに手を加えて『星隕如雨』とした」とある。これはただ魯国の歴史書に潤色を加えただけで、褒貶に関わるものではない。しかるに本書はこれを特筆とみなしている。これは道理の通らぬものである。また「華督には君を無視する心があり、その後に悪事に動いた。だから先に殤公を書き、その後に孔父を書いた」(*3)ことは、左氏伝に明文があり、明らかに特筆といえるところである。ところが本書にはかえって言及がない。これなどは疎漏に属すものである。しかし「春秋二百四十二年、獲麟で終わるのは、乱が極まれば必ずや治にもどり、王者の功業は決して滅びぬことを明らかにしたのである」(*4)とある。これなどは他の学者に比べて甚だ見識ある発言である。

『四庫全書総目提要』巻二十六



(*1)荘公7年経。
(*2)不修春秋は孔子が修める前の『春秋』を指す。
(*3)華督(華督父)云々は桓公二年の経文「宋督弑其君與夷、及其大夫孔父(宋督 其の君の與夷を弑し、其の大夫の孔父に及ぶ)」に対するもので、四庫官は左氏伝によって解釈している。左氏伝には「宋督攻孔氏、殺孔父而取其妻。公怒。督懼、遂弑殤公。君子以督為有無君之心、而後動於惡。故先書弑其君(宋の華督は孔氏を攻め、孔父を殺してその妻を奪った。殤公はこれに怒った。督はこれを懼れて、ついに殤公を弑した。君子は華督には君を無視する心があり、その後に悪事に動いたと考えた。だから経文には孔父の殺害よりも先に「其の君を弑した」と書いてあるのである)」とある。ただし穀梁伝は「書尊及卑、春秋之義也(尊貴のものを書してから卑賤のものに及ぶのが春秋の流儀である)」と解釈し、左氏伝とは異なる解釈を提示している。宋代では穀梁伝の説を採る場合が多く、この提要の指摘は必ずしも正鵠を得たものではない。ただいずれにせよ特筆であることにはかわりない。
(*4)獲麟条に見える。

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