劉敞『春秋権衡』十七巻

○内府蔵本

宋の劉敞の撰。敞、字は原父、臨江新喩の人。慶暦年間に進士となり、集賢院学士になった。その生涯は『宋史』本伝に見える。弟の攽の手になる敞の行状、および欧陽修の作である敞の墓誌には、いずれも「敞には『春秋伝』十五巻、『権衡』十七巻、『説例』二巻、『文権』二巻、『意林』五巻があった」とあり、王応麟の『玉海』に記すところも同じである。陳振孫の『書録解題』には「原父はまず『権衡』を作り、三伝諸家の得失を平らげた。次に諸種の学説を集め、自己一身の考えで是非を判断して『春秋伝』を作った。『春秋伝』で言い尽くせぬところは『意林』に示した」とある。ならば『春秋伝』の成立は『意林』の前にあり、本書はさらに『春秋伝』の前にあることになる。敞の春秋学は本書が根底となっているのである。

その自序(*1)には「『権衡』が世に出てからというもの、だれひとり理解できなかった」といい、さらには「碩学博識の士でなければ本書を読むことはできない」とも言う。その自負の念は甚だ高いと言わねばならない。葉夢得は『春秋伝』(*2)を作ったとき、他の学説の多くを排斥したが、特に孫復の『尊王発微』を非難し、「復は礼の理解が浅い。そのため発言に矛盾が多く、経学に甚だしき害悪がある。概ね礼によって当時の過失を論断しているのだが、かえって礼制そのものを理解しきれておらぬ。これなどは最も浅薄なところである」(*3)と言った。しかし敞に対してだけは、「その学問の方法は正しかった」(*4)と推奨している。敞は礼に深い理解があったからであろう。だから本書も〔孫復らと同じく〕多くの学説の是非を論ずる際、往々にして〔三伝を無視し〕経文に立脚して解釈を施してはいるが、復のように自分勝手な判断を出していない。これもまた史的根拠を重んずる心がそうさせたのであろう。

『四庫全書総目提要』巻二十六



(*1)通志堂本『春秋権衡』には自序が冠されるが、四庫本には納蘭性徳の序文が原序として挙げられるに止まる。劉敞の自序は『公是集』にも見える。
(*2)ここでは「葉夢得が春秋の解釈を行ったとき」という程度の意味と思われる。
(*3)『文献通考』経籍考10の尊王発微条所引石林葉氏に見える。
(*4)『文献通考』経籍考10の春秋権衡云々条所引石林葉氏に見える。

inserted by FC2 system