孫覚『春秋経解』十三巻

○兵部侍郎紀昀家蔵本

宋の孫覚の撰。覚、字は莘老、高郵の人。進士となり、御史中丞に至った。その生涯は『宋史』本伝に見える。本書が「龍学孫公」の文字を冠するのは(*1)、覚が致仕したとき、龍図閣学士兼侍講・提挙醴泉観だったからであろう。

覚は若くして胡瑗に学び、その春秋学を伝えたが、それは抑霸尊王――覇者を抑えて王者を尊ぶ――を宗旨とするものだった。本書の自序には「左氏は事柄をつぶさに説明し、公羊と穀梁はその梗概を残している。このたび三伝諸家の学説の当否を比べたところ、穀梁が最も精密深淵であった。そこで穀梁を根本に据えた。学説の是非褒貶については、三伝および歴代諸学者――啖助・趙匡・陸淳氏らの学説の中でより優れたものを採用する。それでも納得できない場合は、安定先生(胡瑗)の学説によって解釈を施した」とある。既に瑗の『春秋口義』五巻は散佚しており、その骨格は本書によってのみ知り得るのである。

周麟之の跋文(*2)には「これ以前、王安石は春秋に解釈を施して天下に通行させようとしたが、莘老の書物が世に出るや一見して恥じるところあり、その上に出られぬことを覚った。そこで聖経なる春秋を〔断爛朝報だと〕誹謗し、〔学官から〕除いてしまった」とある。しかし邵輯の序文(*3)には「本書は孫先生晩年の作品である」とある。ならば安石が本書が存在するからといって春秋を除いたというのは必ずしも正しくあるまい(*4)。しかし当時にあって本書が重宝されたことは知り得るし、それあってこそ麟之のような説話も生れたのであろう。

『宋史』芸文志は覚の『春秋経解』十五巻を載せるほか、別に『春秋学纂』十二巻と『春秋経社要義』六巻を載せている。朱彝尊の『経義考』はこれに拠って三書とも掲載し、『経解』に対しては「現存」とし、『学纂』『要義』に対しては「散佚」とした。しかしこの本は確かに十三巻であり、しかも隠公元年から獲麟条に至るまで首尾完具しており、欠落したところがない。しかるに『宋史』芸文志の記載と一致しない。

陳振孫の『書録解題』によると、『春秋経解』十五巻と『春秋経社要義』六巻はあるが『春秋学纂』はない。王應麟の『玉海』には『春秋経社要義』六巻と『春秋学纂』十二巻はあるが『春秋経解』はない。しかし『学纂』条に注記して、「その学説は穀梁を根本とし、広く左氏・公羊および歴代諸学者の優れたところを採り、ままその師の胡瑗の説によって論断した。荘公を上下篇に分けている云云」とあり、この本とまったく一致している。ならば『春秋学纂』は『春秋経解』の別名である。『宋史』芸文志は間違って〔『学纂』と『経解』を〕二書とみなし、さらに巻数まで間違えたのである。『書録解題』も十三巻を間違えて十五巻としたのだろう。ただ『玉海』の記録のみが真を得たものと見なせるのである(*5)。

『四庫全書総目提要』巻二十六



(*1)四庫本は『春秋経解』を書名とするが、宋代の目録や『永楽大典』は『龍学孫公春秋経解』を書名とするのによる。
(*2)四庫本の末尾にある。殿版その他には見えないが、『経義考』には引かれる。
(*3)四庫本の冒頭にある。殿版その他には見えないが、『経義考』には引かれる。
(*3)王安石が春秋を学官から除いたのは、孫覚壮年のころに当たる。随って『経解』が孫覚最晩年の著書であれば、王安石が春秋を学官から除いたころ、本書はまだ存在しなかったことになる。随って王安石が孫覚の『経解』を見て春秋を学官から除いたということは、時間的にありえないことになる。
(*4)この四庫官の論評は完全に間違っている。事実は逆で、十五巻本が正しく、十三巻本が偽物である。こちらを参照。

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