蘇轍『春秋集解』十二巻

○浙江呉玉墀家蔵本

宋の蘇轍の撰。これ以前、劉敞は『春秋意林』を世に出し、多くの新学説を提起した。また孫復は『春秋尊王発微』を世に出し、新説に加え、三伝を捨てて経文の理解を求める手法を唱えた。かくして古代以来の学説は徐々に廃れていった。この後、王安石は春秋を断爛朝報だと批判し、科挙の試験科目から排除した。轍は当時にあって春秋の経文と三伝の伝統が乱れたことに鑑み、本書を作ってこの風潮を矯めようとした。

本書の説くところは、左氏伝を中心としたものであり、左氏の学説が不十分であれば、公羊・穀梁あるいは啖助・趙匡らの諸学説によって埋め合わせたものである。〔左氏を中心に据えたのは、〕左氏は魯国の歴史書を利用できたが、公羊と穀梁以下の諸学説はどれも憶測で経文を解釈したにすぎないと考えてのことであろう。

自序には「煕寧以来、高安に蟄居しつつ本書の執筆に勤しみ、暇を見つけては改訂を施していた。元符元年に龍川に居住してから、また一新を図った。本書を見てもはや心残りとすべきものは何もない」とある。本書は十余年の歳月をかけてようやく完成したのである。その心遣いの用意周到なこと、憶測で軽々しくものを言う輩の及ぶものではない。

朱彝尊の『経義考』には、陳宏緒の跋文を載せ、こう言っている。――「左氏は事柄を記載すること全くもって完備しているが、道理に反するところもないではない。公羊と穀梁は憶測で経文を解釈してお〔り、左氏が史実に明るいことに劣〕るとはいえ、左氏と公羊・穀梁は互いに得失がある。例えば、『戎伐凡伯于楚丘(戎、凡伯を楚丘に伐つ)』について見れば、穀梁は戎を衛国とみなしている(*1)。『斉仲孫来(斉の仲孫、来る)』について見れば、公羊と穀梁は魯の慶父のことだとしている(*2)。魯が項国を滅ぼしたことについても、本当は斉が滅ぼしたのだとしている(*3)。これらは明らかに経文と乖離しており、その間違いは敢えて指摘するに及ばない。しかし隠公四年の秋に公子翬が軍を率い、宋公・陳侯・蔡人・衛人と会合して鄭国を伐ったこと、桓公十有四年の秋八月壬申に御廩に火災があったのに、乙亥に嘗の祭りを行ったこと、荘公二十有四年の夏に公(荘公)が斉に出向いて公女を出迎えたこと等々については、公羊と穀梁の学説は聖人の精微な心づかいに合致しておるようである。しかるに潁濱(蘇轍)はそれら公羊と穀梁の学説を深読みのしすぎだといって批判している。これらはわずかの欠点のために大事なことを見逃したものと言うべきであろう。本書を読むものは、その短所を捨てて長所をとればそれでよいのである」(*4)とある。本書の論評として頗る適切である。この本には〔宏緒の跋文が〕載っていない。宏緒〔の跋文が書かれる〕以前に印刷されたのであろう。

『宋史』芸文志は本書を『春秋集伝』と記しているが、『文献通考』は『春秋集解』としており、この本と合致している。『宋史』芸文志が筆写のときに間違えたのだろう(*5)。

『四庫全書総目提要』巻二十六



(*1)隠公七年の経文。経文「戎伐凡伯于楚丘」は、そのまま解釈すれば「戎が天子の使者である凡伯を伐った」となるが、穀梁によると、実は戎は衛国のことで、「衛国が天子の使者である凡伯を伐った」のだが、あまりに恐れ多いので、孔子が「衛伐凡伯于楚丘」を「戎伐凡伯于楚丘」と書き換えたとする。
(*2)閔公元年の経文。魯の公子慶父を「斉の仲孫(斉国の仲孫)」とあたかも別人のように書き換えたとする。
(*3)僖公十七年の経文。経文は「夏、滅項」。跋文は「魯滅項」とするが、春秋は魯を内にするので、経文に「魯」という国名を記すことはない。随って、経文に主語もなく「滅項」とあれば、自動的に魯国(つまり自国)が項国を滅ぼしたということになる。これが春秋の書法(書き方)と言われるものである。ところが公羊と穀梁は敢えて経文の書法を無視して、「項を滅ぼしたのは斉の桓公だ」と解釈する。
(*4)以上の陳宏緒の跋文は『経義考』巻182最終条に見える。
(*5)蘇轍の書物は『集解』と名付ける場合が多いとはいえ、四庫官のこの判断には根拠がない。


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