蕭楚『春秋辨疑』四巻

○永楽大典本

宋の蕭楚の撰。楚、字は子荊、廬陵の人。紹聖年間、太学に遊学したが、礼部の試験に合格しなかった。当時は蔡京が国政を専断していた。楚はその邪悪に憤怒し、「京は宋の王莽になろうとしている」と言って仕官の意を絶った。かくして山林に入って物を書き、春秋の学を明らかにした。趙暘・馮澥・胡銓らは蕭楚に師事した人々である。建炎四年の始めに卒した(*1)。

曾敏行の『独醒雑志』には「著書に『春秋経辨』があり、廬陵で刊行された」とあり、『宋史』にも『春秋経解』十巻を載せている。朱彝尊の『経義考』は「散佚」とし、胡銓の序文を載せるに過ぎない。本書に掲載された銓の序文は『経義考』と同じものだが、ただ表題だけは「春秋辨疑」と少しく違っている。後に校訂したのを史書が書き損じたのだろうか。『江西通志』と『万姓統譜』はどちらも「本書は四十九篇ある」と言うが、現行本は四十四篇しかない。散佚した部分があるのだろう。『宋史』芸文志は「十巻」と言うが、現行の『永楽大典』に残るのは二巻にすぎない。明代の人が〔十巻の原本を〕分合したのだろう。

本書の主旨は、支配権を天王に集めること、そして信賞必罰の権が臣下に移るのを厳しく戒めることにある。それらは主として奸臣の国政壟断という当時の状況に鑑みて発言したものだろうが、議論は公明正大で、確かに孔子の筆削の心に合致している。これは胡安国が時事問題に足下をすくわれ、ややもすれば経書の本義と乖離してしまったのとは異なり、また孫復のように、尊王と言いながら必要以上に厳罰を加えるのとも違っている。

陳振孫の『書録解題』には「胡銓は春秋科を受験して科挙に合格すると、〔師の蕭楚の下に〕もどり、寝台にひざまずいて報告した。そのとき楚は、『学問は科挙のためだけにあるのではない。その身は殺されてもよい。しかし学問は辱めてはならぬ。我が春秋を汚さねばそれでよい』といった」とある。その後、銓は孤軍奮闘、正論をはき続け、その名誉は千年の後に輝いた。ならば師弟の春秋に対するものは、ただ口耳の学問ではなかったのである(*2)。

本書の各篇には注があり、それらはすべて蕭が書いたものである。しかしまま胡銓や他の弟子たちが書き加えたものがある。この度の編纂に於いては、蕭の注と胡銓の注に対して別個の表題をつけ、四庫官による校正の注はそれらの下に加え、三者に混乱のないようにした(*3)。

『四庫全書総目提要』巻二十六



(*1)『宋史』に蕭楚の伝はない。主なる史料は胡銓の「清節蕭先生墓誌銘」(『澹菴文集』巻5。版本によって巻数は異なる)、「春秋経辨序」(『経義考』巻184。版本によっては胡銓の文集にも収める)、および下に見える曾敏行『獨醒雑志』巻6である。
(*2)ただ口で講義し耳で受講するだけの上っ面の学問ではなく、春秋の大義から正しい生き方を学び、師弟でそれを実践したということ。
(*3)四庫本『春秋辨疑』によると、蕭楚の注には「原註」、胡銓らの注には「附註」、四庫官の注には「案」と、おのおの別個の表題が加えられている。


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