崔子方『春秋経解』十二巻

○永楽大典本

宋の崔子方の撰。子方は涪陵の人。字を彦直といい、号を西疇居士といった。晁説之の文集には、別に伯直と字したとある(*1)。二つの字があったのだろう。

朱彝尊の『経義考』には、「むかし滁州知事となり、曾子開が子方のために茶仙亭記を書いた」とある。『経解』などの書は、仕事を辞めた後に作ったものである(*2)。そもそも子方は『宋史』に伝がない。しかし李心伝の『建炎以来繋年要録』には、「紹聖年間に子方はみたび上奏し、〔廃止された〕春秋博士をもういちど置くよう求めたが、認められなかった。そのため真州の六合県に隠居し、家にこもって著作に専念すること三十余年」(*3)とある。陳振孫の『書録解題』の記載もほぼ同じである。朱震の進書箚子(*4)にも「東川の布衣」(*5)とある。彝尊が何に依拠してああ言ったのかは不明であるが、『永楽大典』に引用される『儀真志』には、「子方は蘇軾や黄庭堅と交遊をもっていた。あるとき滁州知事の曾子開のために『茶仙亭記』を作り、酔翁亭のそばに石刻を作った。黄庭堅は六合佳士と言って称えた」とある。彝尊はこの記事を読み間違ってあのように言ったのであろう。

子方が本書を著したとき、王安石の主張が世を席捲しており、〔子方の学説が〕世間に認められることはなかった。しかし南渡の後、本書はようやく知られるようになった。王応麟の『玉海』には、「建炎二年六月、江端友が要請した。――湖州に命じ、崔子方の『春秋伝』を取り寄せ、秘書省に収蔵させますように、と。紹興六年八月、子方の孫の若が〔子方の書物を朝廷に〕献上した」とある。このとき朱震は翰林学士であったが、彼もまた箚子を提出して〔子方の著書を表彰するよう〕求めたのである。その当時、子方の書物にひときわ注目が集まっていたのだろう。

子方の自序には、「聖人は当時(春秋時代)の是非を正すことで、来世の人々に勧戒を教え諭そうとした。〔......〕そのため辞(*6)によって明らかにし難いものは、例(*7)を用いて指し示し、例でも思いを尽くせぬというので、日月の例(*8)が設けられ、変例(*9)が生じた。〔......〕細やかに思考をめぐらせること、網(あみ)に綱(つな)があるようなものである」といい、後序にも本書の主旨を詳述している。要するに、経文の意味を推し量り、三伝の誤謬を多く訂正したものである。

例えば、晉の文公が鄭国を包囲したことについては、翟泉の会に参加しなかったことを責めて討伐したのだと言い(*10)、また郕伯が魯国に亡命したのは、斉国に迫られたからだとし(*11)、また斉侯が萊国を滅ぼしたとき、〔経文に斉侯の〕名を記さないことに対しては、『礼記』の「諸侯が同姓を滅ぼしたときには〔滅ぼした国の君主の〕名を記す」という記述の間違いを訂正している(*12)。これらは往々にして他の学者の未だ知り得なかったものである。本書は日月の例に拘泥し、論述に偏ったところもあるが、優れたところを数え挙げれば、確かに一家を立てるにふさわしいものがある。

子方の著書には『経解』『本例』『例要』の三つがあった。しかし『通志堂経解』の刊本に収められたのは、わずかに『本例』だけである。このたび『永楽大典』から佚文を拾い集め、三書を旧来の形にもどした。ただ僖公十四年の秋から三十二年まで、および襄公十六年の夏から三十一年までは、『永楽大典』が欠落していた。そこで『黄震日抄』所引部分と『本例』によって欠落部分を補った。その他、『本例』には本書に言及されていないことが書かれてあったり、本書と少しく異なるところがあるので、それらも節録して注に示すことにした。また巻数と書名については、すべて『宋史』に従った。

子方が原書で用いていた経文はもはや知り得ない。この度の編集にあたり、子方の解釈を調べると、おおむね左氏に従いながらも、まま公羊と穀梁に従うところがあった。そのため胡安国の『春秋伝』と相違が生まれたのである。しかし本書の主旨とは直接関係のないことなので、この度は原文に従うことにした(*13)。

『四庫全書総目提要』巻二十七



(*1)『嵩山文集』巻12の三伝説、巻19の江子和墓誌銘に見える。
(*2)原文「朱彝尊『経義考』称:其嘗知滁州、曾子開爲作茶仙亭記。『経解』諸書、皆罷官後所作。考子方......」。朱彝尊の発言は『経義考』になく、『曝書亭集』巻34の涪陵崔氏春秋本例序に見える。その場合、「『経解』諸書、皆罷官後所作」までが朱彝尊の発言で、「『経解』諸書、皆罷官後所作」は四庫官の発言ということになるが、文章の流れからすると、『経義考』の引用は「『経解』諸書、皆罷官後所作」までかかっているようにも思える。なお朱彝尊の発言は提要所引の文章では分かりにくいが、文集所載のものは「涪陵崔子方彦直、自称西疇居士。嘗与蘇、黄諸君子游、知滁州、曾子開曾為作記、刻石醉翁亭惻。其説春秋有『経解』十二巻、『本例』二十巻。建炎中、江端友請下湖州、取所著『春秋伝』、儲秘書省。于是其孫若上之于朝。今其解不可得見。惟『本例』独存、序之曰......」(『曝書亭集』巻34)となっており、意味明瞭である。
(*3)『経義考』に引用を見ないので原文を挙げておく。「初、東川布衣崔子方治春秋、紹聖間三上疏、乞置博士、不報、乃隱居真州六合県。子方剛介有守、雖衣食不足、而志気裕然、杜門著書、三十余年而死。至是、兵部員外郎江端友請下湖州、取子方所著『春秋伝』、蔵於秘書監。従之」(『建炎以来繋年要録』巻16、建炎二年六月丁卯条)
(*4)四庫本の崔子方『春秋経解』冒頭に付録として残っている。進書箚子とは、崔子方の書物を朝廷に献上させるよう求めた箚子の意。箚子は上奏文の形式。
(*5)布衣とは官僚でない人間、つまり普通の人間のこと。朱震の発言が正しければ、崔子方は官僚になったことはなく、随って朱彝尊の発言は間違いということになる。
(*6)辞とは春秋経文の字、もしくは句、もしくは文のこと。
(*7)例とは辞例や義例と呼ばれるもの。経文の一定の書き方に、一定の意味(是非善悪褒貶)を付与するもの。
(*8)日月の例とは義例の一種。時月日例とも言われる。経文に時(四時=四季)、月(正月~十二月)、日が記されるか否かでもって褒貶を読み解こうとする立場で、春秋学の伝統的解釈法の一つ。
(*9)変例とは変則的な義例のこと。広義の例に含まれる。例と変例を対置する場合は、経文を通して一定の意味を持つ「例」に対し、敢えて「例」を破って特殊な書き方をしたものを「変例」という。変例と対置される例は、凡例や定例とよばれる。
(*10)僖公30年の晉人秦人圍鄭条。ただし後述する『永楽大典』欠落部分にあたる。四庫官の案語に「按:黄震『日抄』云:諸家多拠『左伝』謂『晉文旧嘗過鄭、鄭無礼而報怨』。考:踐土与温之会、鄭伯皆在。豈至是始責旧怨哉」とある。
(*11)文公12年の春王正月郕伯来奔条。四庫官の案語に「按:此條係崔氏独闢之解、三伝及諸家、倶未之及」とある。
(*12)襄公6年の十有二月斉侯滅萊条。『礼記』云々は曲礼下の「滅同姓名(同姓を滅ぼせば名いう)」を指す。崔子方の『経解』には、「萊、姜姓也。斉侯滅萊不名、則知衛侯燬滅邢、非為同姓而名、明矣(萊は姜姓なり。斉侯、萊を滅ぼして名いわず。則ち知る、衛侯燬、邢を滅ぼすに、同姓の為にして名いうに非ざること明らけし)」とある。要するに、もし「同姓を滅ぼした場合は、滅ぼした国の君主の名前を書す」という法則が正しいなら、斉国と萊国はともに姜姓なので、斉が萊を滅ぼした場合、同姓を滅ぼしたことにより、春秋経には「斉侯某滅萊」と書かれるはずである。しかし経文は「斉侯滅萊」とのみあって、斉侯の名を挙げない。随って春秋経文の「衛侯燬滅邢」には衛侯の名(燬)が記されてはいるが、これは同姓の国(邢)を滅ぼしたからでない、別の理由によって名前が記されたのだということが分かる。併せて(四庫官が考えるには)『礼記』曲礼下の定義は間違っていることも証明される。
(*13)「しかし本書の主旨とは直接関係のないことなので、この度は原文に従うことにした」の一文は書前提要に存在しない。


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