葉夢得『春秋伝』二十巻

○浙江朱彝尊家曝書亭蔵本

宋の葉夢得の撰。夢得、字は少蘊、号は石林。呉県の人。紹聖四年の進士。南宋以後、崇信軍節度使になった。その生涯は『宋史』文苑伝に見える。

夢得の著作目的はこうである。――孫復の『春秋尊王発微』は、三伝を排除して経文のみで春秋を理解しようとした。また蘇轍の『春秋集解』はもっぱら左氏伝に従い、公羊伝と穀梁伝を排除した。しかしこれらはいずれも弊害あるを免れない。そのため本書は三伝をあわせて経文を理解した。そして事柄を知り得ない場合は意味について考察し、意味を知り得ない場合は事柄について考察し、意味と事柄とを互いに考察することで経文の主旨を明らかにしたものであり、きわめて精確である。開禧年間に孫の筠が南剣州で刊行したとき、真徳秀が跋文を書いたが、そこには「本書は邪説異端を退け、世教に補益すること浅からぬものがある」(*1)と賞賛している。

『宋史』芸文志には、夢得の本書とは別に『春秋考』三十巻、『讞』三十巻、『指要』『総例』二巻、『石林春秋』八巻が見える。現在『春秋讞』と『春秋考』の二書は『永楽大典』に散見し、その梗概を知ることはできるが、それ以外はすべて散佚してしまった。ただこの『春秋伝』だけが完全な書物として残ったのである。

『南窻記事』によると、「夢得は春秋の書物を作ったが、そこには四つの区別があった。音義を解釈したものを『伝』といい、事実を訂正したものを『考』といい、三伝を排撃したものを『讞』といい、凡例をあつめたものを『例』といった。あるとき夢得は徐惇済に語ってこう言った。――『このような名付け方はいままでかつてなかったものだ』。惇済、『呉程秉は三万余言の書を著したが、それらは『周易摘』『尚書駁』『論語弼』と言った。これに類似している云々』」(*3)とある。本書を調べたところ、ただ音義を解釈したものではなく、これだけでも『南窻記事』の記事は既に間違っている。一字を書名に当てるやり方も古くからよくあることで、春秋を例にとれば、「伝」が通常の書名であることは論ずるに及ばず、他にも『漢書』芸文志には鐸氏と張氏に『春秋微』があり、『公羊伝』の疏には閔因の『春秋序』があり、『後漢書』には鄭衆の『春秋刪』があり、『隋書』経籍志には何休の『春秋議』、崔霊恩の『春秋序』がある。孫炎には既に『春秋例』がある。夢得は博識であったのに、それらを知らぬはずがあるまい。このような書名はなかったというが、決して事実ではないのである。また『宋史』芸文志には夢得の『春秋指要』と『総例』を載せるが、そこでも『春秋例』とはしていない。まったく牽強付会の発言で依拠するに足らない。

『四庫全書総目提要』巻二十七



(*1)真徳秀の跋文は『通志堂経解』所収の葉夢得『春秋傳』の末尾に付されている。
(*2)『南窻記事』の葉石林問徐惇済曰云々条に見える。

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