呂祖謙『春秋集解』三十巻(呂本中『春秋集解』三十巻)

○内府蔵本

宋の呂本中の撰(*1)。伝本には呂祖謙の撰とあるが、それは間違いである。本中は字を居仁といい、好問の息子である。『宋史』本伝によると、靖康初年に祠部員外郞となり、紹興六年に進士を賜り、起居舍人に抜擢され、八年に中書舍人兼侍講となり、権直学士院となり、世の学者は東萊先生と呼んだとある。そのため趙希弁の『読書附志』には「本書は東萊先生の著である」とある。

後世の人々は、呂祖謙が朱子と交遊を持ち、最も有名であり、また東萊先生とも呼ばれている〔ため、東萊先生というとすぐに呂祖謙を思い浮かべる〕。しかし本中の方は詩擅にその名が知られるだけであり、しかも詩を作る人々は呂紫微と呼ぶことが多かく、時とともに東萊と呼ばれなくなった。そのため本書の撰者を祖謙に変えてしまったのである(*2)。陳振孫の『書録解題』に本書を「本中の撰」と明記してあるのを知らないのである(*3)。

朱彝尊の『経義考』は訂正を企図したようだが、『宋史』芸文志が〔現行本の三十巻と違って〕十二巻としていることに疑問を残した。しかし巻数の分合はよくあることで、本書だけのことではない。ましてや振孫は「本書は三伝以下、諸学者の学説を集めているが、それは陸氏・両孫氏・両劉氏・蘇氏・程氏・許氏・胡氏の数人(*4)に過ぎない。学説の選択はきわめて精確であるが、自己の学説は全くない」と言っており、本書と合致している。以上から、伝本の著者名が間違っていたと分かるのである。

ただ『宋史』芸文志は本書以外に祖謙の『春秋集解』三十巻を標出しており、少しく矛盾があるようである。恐らく宋代末期の刊本は既に原本の巻数を〔三十巻に〕分けており、呂祖謙の撰と改めていたのだろう。間違ったまま世間に伝わり、『宋史』もそれによって二重に標出したのであろう。祖謙の『年譜』はその著述を詳しく記載し、製作年月まで残しているが、『春秋集解』だけは記載がない(*5)。これもその確証と言い得るもので、他のことで疑念を挟むに足らない。

本中は『江西宗派図』を著し、また『紫微詩話』もあり、どちらも世上盛んに流通している。そのため世間では文士として知られているが、経学に対する理解もこれほどに深いものがあったのである。林之奇は本中に学問を受け、またその学問を祖謙に授けた。その学問には由来するところがあったのである。

『四庫全書総目提要』巻二十七



(*1)近年『春秋集解』は呂祖謙の作で間違いなく、四庫官の鑑定は間違っていたと論断された。
(*2)直訳すると以下の通り。「後世の学者は、呂祖謙は朱子と交遊を持ち、また最も有名であり、それ故にまた東萊先生と呼ばれているが、しかし本中は詩壇で名を知られ、詩を作る人々は多く呂紫微と呼んでおり、東萊の号が徐々に消えていったことから、本書を祖謙に移したのである。」なお「後世の学者」は「本書を祖謙に移した」にかかる。
(*3)ここでいう『書録解題』は『文献通考』所引の『書録解題』で、永楽大典から輯佚した現行本の『書録解題』ではない。現行本『書録解題』には「呂祖謙撰」とある。
(*4)陸氏・両孫氏・両劉氏・蘇氏・程氏・許氏・胡氏は、順番に陸淳・孫復・孫覺・劉敞・劉絢・蘇轍・程頤・許翰・胡安国を指す。
(*5)『年譜』は呂祖謙の他の重要著作を落としており、四庫官のこの発言は失当と言わざるを得ない。

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