胡安国『春秋伝』三十巻

○通行本

宋の胡安国の撰。安国の生涯は『宋史』儒林伝に詳しい。さて『玉海』には「紹興五年四月、徽猷閣待制の胡安国に命じた。――〔安国は〕経筵の旧臣である。〔……〕その撰著せる『春秋伝』を編纂させ、完成を俟って進呈させよ、と。十年三月、書物が完成したのでこれを進呈した。詔を下してその功績を褒め称え、宝文閣直学士を授け、銀弊を与えた」(*1)とある。ならば安国のこの書は長らく原稿であったものが勅命によって提出を求められ、さらに五年の訂正期間をおいてようやく完成したものである。兪文豹の『吹剣録』には「本書は起草から成書に至るまで、初稿の一文字も残らなかった」(*2)と言うが、その心遣いもまた勤勉である。ただ本書は南渡の後に作られたため、当時の状況に発憤するところがあり、往々にして己の考えを春秋に仮託している。このためその学説のすべてが経文の主旨に合っているわけではない。朱子の『語録』にも「胡氏の『春秋伝』には牽強付会のところがある。しかしその議論は精神を開かせるものがある」といっている。これもまた千古の定評である。

明朝初期に科挙の制度を定めたとき、概ね元朝の方式に依拠し、程子と朱子を宗旨とした。しかし程子の『春秋伝』はわずか二巻のみで大半が欠落しており、朱子にもしっかりした注釈書がなかった。そこで安国の学問が程氏から出たこと、また張洽の学問が朱氏から出たことを理由に(*3)、春秋の注釈は胡氏と張氏の二家を用いることにした。しかしこの決定は両者の学問の淵源を重んじたからであり、必ずしも二人の解釈が優れていたからではなかった。これ以後、洽の書物は徐々に使われなくなり、ただ安国の書物だけが用いられるようになった。そして徐々に経文すらも打ち捨てられて読まれなくなり、ただ安国の書物だけを宗旨とするようになった。明朝で経義といえば、それは安国の解釈を指していたのである。そのため明朝一代の春秋学は最も劣悪である。馮夢龍の『春秋大全』の凡例には「他の学者の議論はどれも胡氏に勝るものがある。しかし既に科挙に於いて胡氏を重んずる以上、〔胡氏以外の他の解釈を〕本書に収め、人々に混乱を与えることはできない」と言っている。当時の風潮が分かるというものである。

本朝になると経学を重んずるようになった。『欽定春秋伝説彙纂』は安国の旧説に対して始めて多くの反駁訂正を加えた。それは過ちを棄て、優れたところを採ったもので、本書の精粋を摘み取り、原書をまとめきったものであった。〔随って本書はもはや不要であるが、〕世間に流行すること既に久しく、まったく捨て去るわけにもいかない。そこで謹んで校正を加えて本書を『四庫全書』に収録し、一家の言に備えることにした。これ以外に言うべきものもあるが、『欽定彙纂』において既に余すところなく摘み取られ、天下に明示したのであるから、もはやここでは論弁しない。

『四庫全書総目提要』巻二十七



(*1)『玉海』巻40に見えるほか、『建炎以來繋年要録』巻88紹興五年夏四月甲辰条にも見える。〔……〕は『要録』による。
(*2)不詳。『胡氏伝家録』に似た記述がある。
(*3)胡安国は程頤私淑の弟子、張洽は朱熹の弟子。

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