陳傅良『春秋後伝』十二巻

○両江総督採進本

宋の陳傅良の撰。傅良、字は君挙(傅良を傳良と書く場合があり、版本の間で異同がある。しかし傅良はあざなを君挙という以上、「傅説は版築に挙げらる」(*1)から取ったはずである。ならば「傅」の字が正しい)、号は止斎、温州瑞安の人。乾道八年の進士。中書舍人・宝謨閣待制になった。諡を文節という。その生涯は『宋史』本伝に詳しい。

本書について、門人の周勉の跋文には「傅良は本書を認め、脱稿まぎわになって病に倒れた。学者らはその書物を少しでも速く読もうとして、人を雇って書き写させた。しかし傅良が既に削除した部分を編中に留めたり、増訂した部分を削除してしまっていた」とある。ならば現行本は既に傅良の完本ではないことになる。

趙汸はその『春秋集伝』の自序で、宋代の春秋学者の中、陳傅良を最も推奨してこう言った。――「君挙は公羊と穀梁の学説に左氏の学説を加え、経文に記述のない事柄を左氏の記述によって充たし、左氏に記述のある事柄によって経文に記述のないことの意味を明らかにした(*2)。この方法こそ春秋学の要点であり、三伝以後では卓然として名家たるを失わぬ。しかし惜しむらくは、左氏の記録を魯史の旧文だと勘違いし、策書に書式のあることを悟らなかった。孔夫子が筆削を加わえられた部分は左氏も分からなかった。だから左氏の指摘する不書の例(*3)は、すべて史書の書法(*4)なのである。孔夫子の筆削の旨ではないのである。公羊と穀梁は〔経文に〕理解できない所があれば、いつも「不書」によって解決しようとするが、これは確実に左氏と違う一派なのである。陳氏はそれら〔公羊・穀梁と左氏の異なる学説〕をないまぜにして〔聖人の微旨を〕求めているが、これは根本的に間違っている。だから陳氏は左氏の記録する事柄で経文に記述のものに対して、すべて夫子が筆削を加えたところだと言ったのである。しかしそれらは聖人の微旨に合致しないものが多い云々」(*5)。

しかし左氏は春秋のために伝(*6)を作ったのであり、策書(*7)のために伝を作ったのではない。『左氏伝』の「某々の理由によって経文に書かない」には、確かに経文の本旨を理解できていないところがある。しかしこれを「史書の書法を解明するために書いたにちがいない」というなら、それは正しくない。ましてや不修春秋の二条は公羊伝になおも伝文があるのである。左氏がそれを見ていないことなどあり得ない。ならば汸の批判は傅良の病弊を衝いたとは言えないだろう。ただ公羊と穀梁を左氏に混ぜたという指摘だけは、傅良の誤謬を鋭く衝いたものといえるだろう。

王弼が象数を排除して以来、易を論ずるものは日一日と増え、啖助が三伝を排除して以後、春秋を論ずるものは日々増大した。そのため五経の解釈の中、易と春秋の二つだけは特に著書が多い。空論の容易であったことはここからも明白である。傅良は憶説が猖獗を極める時にあって、ひとり古代の学説を基礎に聖人の微旨を研究した。樓鑰の序文には「傅良は門弟の中で三伝に習熟したもの三人――蔡幼学・胡宗・周勉――を選び、任地に赴くときはいつもその中の一人を連れて行った。彼らは疑問に応ずること響きのようであった」とある。傅良は細心の注意を払って研究したのである。また本書は多くの新解釈を提起しているが、解釈の下には必ず「これは誰某の説によった。これは誰某の文である」と記しており、引用も多岐に渉っている。このようなやり方が広まるならば、やかましく褒貶ばかりを論ずる学者の口を止めることもできるだろうものを。

傅良には本書と別に『左氏章指』三十巻があった。樓鑰の序文〔に「春秋後伝左氏章指序」とあるの〕は二書をあわせて言ったものである。朱彝尊の『経義考』は「未見」とする。現在なお『永楽大典』にその梗概を残してはいるが、欠落が多く一書にまとめることはできない。そのため『四庫全書』には収録しなかった。

『四庫全書総目提要』巻二十七



(*1)『孟子』告子下。傅説は土木工事の人足から抜擢されたの意。
(*2)強いて訳したが、書き下しの方が理解しやすいだろう。「其の書さざる所を以て、其の書す所を実し、其の書す所を以て、其の書さざる所を推見す。」経文と左氏伝を比較し、記事の有無によって聖人の微旨を悟ろうとするもの。
(*3)不書とは、(1)聖人が経文に記述しなかった事柄、もしくは(2)聖人によってある事柄が経文に記述されなかった理由、あるいは(3)それらの規則・不規則的表現を意味する。時にそれらの全てを含む漠然とした意味に用いられる。
(*4)史法とは歴史書の書き方を意味する。歴史書は書き手の思いを自由に表現するものではなく、一定の格式の下に歴史事実を記述する。その格式のことを史法と呼ぶ。
(*5)ややこしいので趙汸『春秋集解』の原文を載せておく。「至永嘉陳君舉、始用二家之説、參之左氏、以其所不書實其所書、以其所書推見其所不書、為得學春秋之要、在三傳後、卓然名家。然其所蔽、則遂以左氏所録為魯史舊文、而不知策書有體。夫子所據以加筆削者、左氏亦未之見也。左氏書首所載不書之例、皆史法也。非筆削之旨。公羊、穀梁毎難疑、以不書發義、實與左氏異師。陳氏合而求之、失其本矣。故於左氏所録而經不書者、皆以為夫子所削、則其不合於聖人者亦多矣。」要約すると、左氏と公羊・穀梁は両者ともに「不書」を解釈の根拠にしているが、左氏はそれによって策書の書法を解明しようとし、対して公羊・穀梁は経文の微旨を解明しようとした。ところが陳傅良は左氏と公羊・穀梁が同じく「不書」を利用していることから、左氏の「不書」と公羊・穀梁の「不書」を同じものだと考え、三つをない交ぜにした、ということ。
(*6)ここでは『左氏伝』を意味する。「伝」は一般的には古代の賢者が書いた経書の解釈書のことだが、春秋学の場合は単に春秋の注釈書を意味する。
(*7)策書とは国史編纂の基礎になった公文書・辞令書のことで、魯史のもとになった公文書を指す。ただし国史を指すこともあり、ここでは魯の国史を指すと思われる。

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