程公説『春秋分記』九十巻

○両淮馬裕家蔵本

宋の程公説の撰。公説、字は伯剛、号は克斎。丹稜の人で、宣化県に住んでいた。年二十五で科挙に合格し、卭州教授となった。呉曦が叛乱を起こしたときには、官職を棄てて自身の春秋著作を抱えて安固山に逃げ、著作を完成させてから死んだ。享年わずか三十七。本書巻頭に開禧乙丑の自序がある。淳祐三年に弟の公許が宜春で刊行した。

本書の構成は、年表九巻、世譜七巻、名譜二巻、書二十六巻、周天王事二巻、魯事六巻、大国世本二十六巻、次国二巻、小国七巻、附録三巻である。

「年表」は、まず周から列国を並べ、后や夫人以下の人々、および列国の卿についても各々一篇を設けている。「世譜」は、王族・公族から各国臣下まで、国ごとに一篇を設けている。魯には婦人の名と仲尼の弟子の名を加えている。また燕は目録のみあって本文がない。もとから欠けていたのだろう。「名譜」は、春秋に掲載された全ての人物を五種類に分けたものである。「書」は、暦法・天文・五行・疆理・礼楽・征伐・職官の七門に分けたものである。そして最後に周・魯および列国の世系表から、次国・小国・附録(夷狄)に及んでいる。これらはすべて春秋経と左氏伝の記述に従って分類したもので、条理分明、叙述は典雅で、引用学説と公説の序論もみな純正である。まことに春秋を読むものの百科事典と言うにふさわしい。

明朝以来、本書はほとんど世間に出回らず、そのため朱彝尊の『経義考』にも未見とされている。〔本朝になって〕顧棟高は『春秋大事表』を作ったが、その体裁は公説と類似したところが多い。しかし棟高は他人の著書を剽窃する人間ではない。彼も本書を見なかったのだろう。この本は揚州の馬曰璐の蔵書から出たもので、『通考』に記載された巻数と一致している。また本文中の宋帝の諱は闕筆(*1)にしている。ならば宋の刊本を影抄したものであろう。劉光祖は公説の墓誌を書き(*2)、そこで他にも『左氏始終』三十六巻、『通例』二十巻、『比事』十巻があったと伝えている。懸命に左氏伝を研究した学者だったである。

宋の春秋学は、孫復以来、みながみな憶説でもって春秋を解釈した。だから古来の学説が自分にとって邪魔であるといって憎んでは、三伝の義例をすべて排斥してしまったのである。さらに左氏伝に載せる当時の事跡は余りにも明白で、このため都合よく是非を顛倒させ、己の放言に任せられないといって憎み、左氏の事柄もすべて排除してしまったのである。これを治獄(*3)に喩えるなら、必死になって事件の証拠を握りつぶし、証拠の口を封じてから、事件の是非を判断し、争論を止めさせるようなものである。公説は異説が跋扈する中、ひとり古来の文献を研究し、左氏伝の本末や源流を突き止めることで、虚偽の弁舌を止めさせたのである。春秋に功あるものといわねばならない。

『四庫全書総目提要』巻二十七



(*1)闕筆とは諱を避けるために該当する漢字の一部を省略すること。
(*2)本書冒頭に附されている。
(*3)現在の刑事事件に似たもの。

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