李明復『春秋集義』五十巻『綱領』三巻

○江蘇巡撫採進本

宋の李明復の撰。明復、またの名を兪という。字は伯勇。その生涯は不明で、魏了翁の序文によっても、合陽の人であり、嘉定年間に太学生であったことが分かるに過ぎない。

本書の第一行目には「校正李上舎経進『春秋集義』」とあり、第二行目には「後学の巴川の王夢応」とある。朱彝尊の『経義考』には「『宋史』芸文志は李明復の『春秋集義』五十巻を載せ、さらに王夢応の『春秋集義』五十巻を載せている。かつて見た宋代の板本は李氏の原本であったが、それは王氏の刊行したものだった。王氏に『集義』という別著があったわけではない」とある。本書は無錫の鄒儀蕉の緑草堂蔵本であるが、その署名を見る限り、彝尊の見た本と一致している。『経義考』の所説には根拠がある。『宋史』芸文志は間違えて二つの書物にしてしまったのである。

張萱の『内閣蔵書目』によると、「本書は、周程張の三子(*1)が著書の中で春秋に言及したもの、他の経書の講釈で春秋に触れたもの、語録の中で春秋の解釈に関係するもの等々を広く集めている」とある。しかし本書に採用された学説の中、〔三子以外の〕楊時、謝湜、胡安国、朱子、呂祖謙の学説は一つや二つではなく、特に謝湜の学説は多い。萱は本書の内容を精査しなかったのである。

『経義考』によると、本書の前には『綱領』二巻があり、さらに魏了翁の序文があるというが、この本にはどちらもない。原本を書写するときに紛失したのであろう。しかし春王正月条の下に明復自身が注を施して「他は『綱領』の上巻と中巻に示した」というからには、『綱領』は三巻あるはずで、だから上中下の区分があるのである。『経義考』が二巻というのは少しく事実を違えている。このたび『永楽大典』を調べたところ明復の『綱領』がなお存在した。そこで謹んで『永楽大典』から抄出して本書に付け加え、三巻にまとめて原本の形にもどした。

『四庫全書総目提要』巻二十七



(*1)周程張三子は恐らく周敦頤・程頤・張載の三人を指すと思われるが、程子は程顥も含まれ、厳密には四人になる。
(*)本書についてはこちらの記事を参照。

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