黄仲炎『春秋通説』十三巻

○両江総督採進本

宋の黄仲炎の撰。仲炎、字は若晦、永嘉の人。本書の進書表には「科挙に力を費やしたもののうまくいかず」とあり、李鳴復の奏挙状にも「科挙以外にも古代の聖賢を篤く信じるものがおり」とあることからすれば、恐らく仲炎は長らく科挙に合格できないでいた士人なのであろう。本書は紹定三年に完成し、上呈されたのは端平三年である(*1)。

自序にはこうある。――「春秋は聖人が天下を教え戒しめるために作った書物であり、褒貶の書物ではない。〔では教戒とはなにかというと、〕書法を教といい、事柄を戒という。三伝が褒貶説を立てて以来、春秋を専門とする師弟らはその誤りを受け継いできた。そして漢代以後になると〔褒貶のための〕類例(義例)は複雑煩瑣になり、かえって春秋の大義は隠れてしまった。」つまり本書の主旨は、春秋は事柄を直書した書物であり、義理は〔事柄を読むことで〕おのずと明白になるということにある。そのため古代以来、春秋の経師が伝授してきた学説――王に天を書さぬ、桓公に王を書さぬなどの類例(*2)――はすべて廃棄されている。朱子の『語録』に「聖人は事実をもとづいて『春秋』を書かれたのであり、是非得失については言外の意があるのだ。もし経文の一字一辞ついて褒貶の所在を求めるというならば、恐らくそれは正しくあるまい」とある(*3)。仲炎の表書に「朱熹の意見を酌んで」とあるが、それはこの発言にもとづいたのであろう。何夢申が呂大圭の『春秋或問』に序文(*4)を書き、「春秋を伝えたものは幾百家あるが、大抵は褒貶賞罰を中心としている。ただ『或問』だけは朱子にもとづき、褒貶賞罰説をまったく排斥している」と言った。仲炎が既に論じていたのを知らなかったのである。

書中、南季の来聘について、三伝と『礼記』を根拠に、「天子に諸侯を聘問する礼はない。『周礼』時聘の一節は信ずるに足らない」(*5)と言い、滕侯と薛侯が来朝したことについて、「諸侯間に私に朝する礼はない。三伝はいずれも間違っている」(*6)と言うが、これらは過度に古代以来の学説を疑ったものである。また首止の盟に対して、王の世子(世継ぎ)が党派を立てて父(周王)を牽制した(*7)と言うが、これは深読みのし過ぎである。「子同、生まる」に対して、左氏伝の文字が経文に混入したものだと言い(*8)、「蔡の桓侯を葬る」に対して、〔侯の字は〕公の字の誤植だと言い(*9)、「同に斉を圍む」に対して、圍の字は重写の際の誤字だと言う(*10)。これらは疑惑の目が経文にまで及んだもので、憶測推論を免れない。しかし「季友は巨悪。後宮と結託していた」(*11)と言うところなど、〔その根拠とする〕成風の私事は左氏伝に明文がある。〔これに対する仲炎の〕文字遣いは厳正で、論旨は正しく、千古の戒めとするに足るものと言えよう。

また胡安国の『春秋伝』を論評しては、「孔子は顔淵の質問に応じて、『夏時を用いる』と言った。しかし春秋を修めたとき、躊躇なく〔周の暦から夏の暦に〕改定したとは考えられない。胡安国氏は『春秋は夏正を周月にかぶせている』と言う。朱熹氏はこれを批判しているが、恐らくは当たっていよう。孔子が春秋で述べたのは古来の礼についてである。諸侯の強者を憎んでことさら天子に論及したり、大夫の専横を厭うて諸侯に論及したり、呉楚の暴虐に憤って中国を持ち上げるなどのことは、臣下であっても為し得ることである。しかし当時の制度を改め、天子の賞罰を盗むとなると(*13)、孔子が望んだとは思われない。そもそも孔子が春秋を修めたのは、これによって当時の専横を正そうとしたからである。それをなぜみずから専横な振る舞いをするというのか」(*14)と指摘している。論旨は明白正大、深く聖人の意を得たものである。安国の遠く及ぶところではない。

『四庫全書総目提要』巻二十七



(*1)年月日の推定は進書表および序文によると思われる。
(*2)春秋は天子を天王と書くが、まれに「王」と書くことがある。一説には、天王が余りに暴虐な振る舞いをしたので、孔子が「天王」の「天」の字を削って「王」だけにしたという。また桓公に王を書さぬというのは、春秋各年のはじめは「王」の字を書すのを通例とするが、桓公だけは「王」が書かれていない。これは孔子が「王」の字を削ったからだとする学説を指す。
(*3)『朱子語類』巻83の春秋綱領に見える。
(*4)正しくは跋文。呂大圭『春秋或問』巻末に見える。
(*5)隠公九年春天王使南季来条。
(*6)隠公十一年春滕侯薛侯来朝条。『通説』巻1該当条には「古者諸侯有因相見、無私相朝」とある。
(*7)僖公五年の首止の盟。
(*8)桓公六年九月丁卯子同生条。
(*9)桓公十七年癸巳葬蔡桓侯条。
(*10)襄公十八年同圍斉条。
(*11)閔公元年季子来帰条。
(*13)天子の賞罰を盗むとは、天子に成り代わって、天下の諸侯や卿大夫に筆誅を加えることを指す。具体的には、滕侯を滕子と書くなど、経文上で爵や身分を上下することを指す。
(*14)隠公元年の春条。

(*)書前提要の主旨は総目提要と同じだが、引用条文に変化があり、胡安国云々の議論も見えない。また本書の論述の仕方についても一言を残し、「釈経の正体に非ず」と批評している。本書のそのものの解説としては、むしろ書前提要の方が適切である。大きく異なる部分だけを訳出しておく。

宋の黄仲炎の撰。端平の初め、尚書の李鳴復が本書を朝廷に献上した。仲炎、字は若晦、温州の布衣。本書の大意は「春秋には教と戒がある。そして教は書法にあり、戒は事実にある。褒貶はない」というにある。義例にこだわらず、毅然と直に己の心情によったものである。例えば……(中略)……これらは一つや二つのことではないが、どの発言も好んで異説を発したものである。また類に触れて議論を広げ、往々にして後代の史事に言及し、その得失を論断しているが、これも経文を解釈する適切なやり方ではない。ただ文辞は流暢で議論も厳正であり、いい加減に作ったものではない。そもそも春秋は史事によって経文を作ったものである。だから史を論ずるものは、必ず春秋を基準とした。仲炎は史によって春秋を証明し、同時に春秋によって史を断じてもいる。道理として本来相通ずるものがあるのである。正当な議論もあることとて、本書の全てを譏るべきではない。

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