趙鵬飛『春秋経筌』十六巻

○湖北巡撫採進本

宋の趙鵬飛の撰。鵬飛、字は企明、号は木訥、綿州の人。本書の主張はこうである。――世の春秋学者は、三伝に拘泥して師説を護るだけで、聖人の本旨を理解していない。そのため本書は経によって経を解釈することにした、と。その自序には「春秋を学ぶものは伝を用いずに経を明らかにすべきであって、伝によって経を理解しようとしてはならない。まだ伝の作られる前、人はどのように経の意味を理解したのだろうか。心によって理解しなければならないのである」と言い、また「三伝は全く依拠するに足りないが、公平に評すならば、聖人の心を得たところもある」とも言っている(*1)。

そもそも三伝ができたときは聖人の時代から遠く離れておらず、学問にも受け継ぐものがあったはずである。確かに経師の講釈には、聖人の本旨を違えたものもあっただろう。しかしそれらを全て棄て去ってしまえば、春秋に登場する人物を調べようにも、その人の関与した出来事を知ることはできず、経文に見える事件を調べようにも、そこに関わった人間を知ることはできない。開巻の一二のことでもってこれを論じてみよう。「元年春王正月」には即位が書かれていない。この問題は夫婦と嫡庶の関係にあるのだが、もし三伝がなければ、いかに窮理格物の学者が畢生の力を振り絞り、経文に依拠して沈思してみても、〔問題の争点となる〕声子と仲子のことは分かるまい(*2)。また「鄭伯、段に鄢に克つ」の経文は段が何者であるのかを言わない。この問題は母子と兄弟の関係にあるのだが、もし三伝がなければ、いかに窮理格物の学者が畢生の力を振り絞り、経文に依拠して沈思してみても、武姜子と荘公の弟の関係について分かりはしまい(*3)。ならばこのような三伝を捨てて経文を論ずる態度は、軽々しい発言を許すことになるだろう。

啖助と趙匡による三伝批判は、それ自体が既に異説発生の萌芽であった。しかし孫復になると完全に古代以来の学説を棄ててしまった。かくして春秋家に無窮の弊害が生じたのである。蔡絛の『鉄圍山叢談』には、鹿溪生黄沇の次の話しを載せている。――「最近の春秋学徒は聖人の志を知ろうとせず、三伝を襲うては魯の三桓や鄭の七穆を言い立て、経を論じては甲子はどれだけ、侵や伐の字はいかほど、などと計算している云々」と(*4)。沇は陳瓘や黄庭堅に学んだ人であり、その学問にはまだ基づくところがあった。それでいてなおこのような主張をしている。恐らく復の学説を襲うたのであろう。鵬飛のこの書も復の亜流である。本書中の最たる珍説は、「経文には成風とあるが、荘公の妾であるのか、それとも僖公の妾であるのか分からない」(*5)といって、疑問のままにしているところである。張尚瑗の『三伝折諸』は、憶測で経文を講釈する態度を批判しているが、そこで〔鵬飛を批判して〕「左氏伝に『成風は季友と結託し、僖公のことを託した』とあるのを知らぬのである。批判するにも当たらない」(*6)と言っている。まことに適切な批評である。

しかし孫復は厳罰を好む嫌いがあるのに対して、鵬飛は深く人間の真心を探っている。本書の学説の中、穏当な解釈まで無みしてはならないだろう。わずかでも長所があるなら、一説として残しておいてよいのである。

『四庫全書総目提要』巻二十七



(*1)趙鵬飛の序文によると、聖人は王道を示すために経書を作った。だから原則として経書を読めば聖人の意図は分かるはずである。ところが世の中の人間は、三伝がなければ経書の意味は分からないという。ならばもし三伝が作られなかったなら、経書の意味は永遠に不明のままなのだろうか。易や尚書は伝がなくても理解できる。それと同じように、春秋も伝がなくとも分かるはずだ、と。
(*2)隠公と桓公は兄弟だが、父の意向や母親の身分で、桓公が後継者となった。しかし桓公はまだ子供だったので、兄の隠公が政務を執った。そこで経文には「公即位=隠公が魯侯の位に即いた」とは記さない、という伝統的解釈がある。このような事情は三伝(特に左氏伝)にしか書かれていない。だからどれほど心を潜めて経文だけを読んでみても、上の事情は全く分からない。四庫官はこの点を指して趙鵬飛の説を批判したのである。なお隠公の母は声子、桓公の母は仲子とされているが異説もある。
(*3)隠公元年の経文。
(*4)『鉄圍山叢談』巻3鹿谿生黄沇欽人也条。なお三桓は魯の桓公の子孫の三家、七穆は鄭の穆公の子孫の七家を指す。
(*5)『経筌』文5年三月辛亥葬我小君成風王使毛伯来会葬条。趙鵬飛は僖公の妾と推論している。
(*6)『三伝折諸(穀梁)』巻1の母以子氏条に見える。

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