呂大圭『春秋或問』二十巻(附『春秋五論』一巻)

○両江総督採進本

宋の呂大圭の撰。大圭、字は圭叔、号は樸卿、南安の人。淳祐七年の進士。朝散大夫・行尚書吏部員外郞兼國子編修実録検討官・崇政殿説書となり、ついで興化軍知事となった。著書に『春秋集伝』があったが、散佚してしまった。

この『或問』二十巻は『集伝』を解説したものである。本書は三伝の中、左氏伝と穀梁伝に従うことが多く、公羊伝を厳しく批判し、何休の『解詁』に対しては最も厳しい。三伝を比較すると、事柄については左氏伝が最も詳しく、義理については穀梁伝が最も深い。ところが公羊伝は多くの経師の手に成ったからあろう、他と比べて偏った学説が多い。特に何休の『解詁』は讖緯説(*1)に牽かれ、無用な詮議立てが頗る多い。大圭の三伝評は確かに当たっている。伝を捨て経に従い〔三伝の得失に無頓着な〕宋代の春秋学者とは学問の根柢が違うのである。

もう一つの著書『五論』は、第一に孔夫子が春秋を作った理由を論じ、第二に日月褒貶の例を批判し、第三に特筆を論じ、第四に三伝の長所と短所を論じ、第五に世変を論じたものである(*2)。程端学は「『五論』は明白正大であるが、根拠として引用する春秋の事跡には、経文の主旨に一致しないところがある」と指摘している(*3)。『或問』を調べてみると、これも経文の主旨と相違が大きい。全体として、大圭は議論こそ巧みだが、考証には手落ちがある。

しかし後々のことであるが、徳祐のはじめ、呂大圭は興化軍知事から漳州知事に異動になった。しかしまだ漳州に移る前に元の軍隊がなだれ込んできた。沿海都制置の蒲壽庚はその地をあげて元に降伏したが、大圭は節義を守って命を落としたのである。その身の処し方は千古に光り輝くもので、大圭が春秋の義を深く理解していたことは明白である。本書には「分義を明らかにし、名実を正し、機微を鮮明にする。これが聖人の特筆である」とあるが(*4)、その忌憚なき推論、透徹した大義は、人倫や名教を護持するに充分である。ならば章句の学の尺度で大圭の学問を測ってはならぬのである。

『四庫全書総目提要』巻二十七



(*1)讖緯は予言書のこと。厳密に定義すると、讖は予言書を指し、緯は経書の補助的解釈書を指す。讖緯に牽かれたとは、何休が讖緯説によって解釈したことを指す。
(*2)現行本『五論』によると、四庫官の指摘する第四と第五は逆になる。板本間の相違も考えられるが、呂大圭の論述方法からして、現行本の配列が正しい。
(*3)程端学の所論は『春秋本義』通論の第三条に見える。
(*4)『五論』第三論文に見える言葉。

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