家鉉翁『春秋詳説』三十巻

○両江総督採進本

宋の家鉉翁の撰。鉉翁、号は則堂、恩蔭によって官を授けられ、後に進士出身を与えられた。端明殿学士・簽書枢密院事になった。その生涯は『宋史』本伝に見える。本書には龔璛の跋文があり、そこには「至元丙子に宋が亡ぶと、元は則堂先生を連行して帰還した。瀛州に抑留すること十年、本書が完成した。瀛州から宣州に遷り、友人の潘公従大に収蔵を依頼した」とある。『宋史』本伝には「鉉翁は河間にいたとき、弟子に春秋を教授した」とある。河間は瀛州のことである。また鉉翁の『則堂集』には弟のために書いた志堂説があり、そこには「私は燕から瀛にもどり、春秋の学業を卒え、『集伝』三十巻を完成させた」とあり、その篇末には「甲申正望」とある(*1)。甲申は至元二十一年である。ならば上は宋の滅亡からおよそ十年、璛の跋文の十年と一致する。下は元貞元年に号をもらい帰郷を許されるまでまた十年(*2)、璛の跋文の「瀛で本書が完成した」ことに一致する。ただ鉉翁自身は書名を『集伝』とするが、この本は『詳説』とする。後に書名を改めたのであろうか。

鉉翁の主張はこうである。――春秋の目的は王法を明らかにすることにあり、事柄を記すことにはない。経文の中、詳しいところと略したところ、記述のあるところとないところがあるのは、原則としては、聖人が褒めたり貶したところである。要するに、まずは聖人が手心を加えたところを探りあて、その後に多くの学説を研究し、その中から適切なものを選りすぐればよいのである、と。そのため鉉翁の議論は公正であり、道理にも明るい。筆誅に目を眩まされた孫復や胡安国らの及ぶところではないのである。鉉翁は河間にいたとき仮館詩を作り、そこで「わが生涯の著作は決して多くないが、残す価値のあるものがあるとすれば、それは春秋と周易だ」と言った。みずからを固く信じていたのであろう。今はただ本書のみ存在し、周易については考える術がない。

『四庫全書総目提要』巻二十七



(*1)『則堂集』巻3の志堂説の篇末に見える。
(*2)至元21年から貞元元年まで11年。

(*)書前提要には少しく異同があり、孫復らは家鉉翁に及ばぬ云々の後、「ましてや鉉翁の生き様は宋末の錚錚たるものである。その人によってその言葉を重んずるのであれば、本書は軽々しく廃してよいものではない」とある。

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