陳深『読春秋編』十二巻

○内府蔵本

宋の陳深の撰。深、字は子微、平江の人。かつて住居を清全斎と名付けたのにちなみ、それを号とした。朱彝尊の『経義考』は盧熊の『蘇州志』を引き、「深は宋の時代に生まれた。宋が滅ぶと古学に打ち込み、門を閉ざして著述に励んだ。天暦のとき奎章閣の臣僚が能書家として朝廷に推薦したが、深は隠遁を決め込んで朝廷に出向かなかった」という。鄭元祐の『僑呉集』には深の次子の植の墓誌がある(*1)。そこに植は至正二十二年に享年七十で死んだとある。ならば植は至元三十年癸巳に生まれたことになる。また元祐によると、植より一歳年長で、深より三十数歳若かった(*2)とある。ならば深の生年は開慶から景定のころに当たり、深は宋が滅んだときまだ二十歳前後だったはずである。だから天暦のころもまだ生きていたのであろう。深の著書には『読易編』『読詩編』があったという。しかし既に両書とも所在がわからず、わずかに本書だけが世に残った。

深の学説は概ね胡氏を宗旨とするが、左氏伝も参照している。左氏伝は魯の国史を基礎としているから、発言にはきっと根拠があるはずであり、公羊伝や穀梁伝に存在する伝聞や怪説とは比較にならない、というのであろう。宋代の学者は好んで空言を用いて春秋を講釈し、遂には事実までも疑い、三伝を高閣に捨ててしまった。深の研究成果に新味はないが、よく事実を研究し、浮説や暴論もなく、三伝を棄てて経文を講釈するといったこともない。篤実な学者と言えるだろう。平凡だからといって軽く扱ってはならないのである。

『四庫全書総目提要』巻二十七



(*1)以下、鄭元祐『僑呉集』巻12の慎独陳君墓誌銘による。
(*2)四庫本の慎独陳君墓誌銘には「先生長予廿餘年」とあり、二十歳年長となっている。なお『宋人伝記資料索引』は陳深の生卒年を1260―1344とするが、訳者未見の資料に基づいたものであり、その是非は判断できない。

(*)年号を書いておく。
至正:1341年~1367年(元、順帝)
開慶:1259年(南宋、理宗)
景定:1260年~1264年(南宋、理宗)
南宋滅亡の時期は見方によって異なるが、だいたい1275年~1279年のころ。

inserted by FC2 system