兪皐『春秋集伝釈義大成』十二巻

○内府蔵本

元の兪皐の撰。皐、字は心遠、新安の人。むかし皐の郷里に趙良鈞なるものがおり、宋末に進士に合格して修職郎・広徳軍教授を授けられた。しかし宋が滅んでからは出仕せず、郷里で春秋を教授していた。皐は良鈞に学問を受け、その学説を奉じて本書を著した。

本書は経文の下に三伝を配置したものだが、胡安国の『春秋伝』も同列においている。呉澄の序文には「胡氏を三伝に並置するのは、時勢によるものだ」とある。そもそも四伝(*1)の名称も澄の序文に始めて見えるもので、これも胡伝(*2)が重視されだした証左であろう。しかし皐は四伝を並置するものの、胡伝の偏ったところや過激な部分については多く是正を加えている。澄の序文に「経文の解釈を読めば、四伝の是非は言葉を費やすまでもなく明白であり、まさに専門の名のふさわしい」とあるのは、まことに公平な論評である(*3)。

皐の自序を読むと、「〔定例として〕十六例を決めたが、すべて程子の『春秋伝』を宗旨とした」とあり、また程子の指摘する「春秋の微細な文字遣いや隠された意図といったものは、各々にふさわしい書き方がされている。だから意図するところは異なるのに文字遣いが同じである場合もあれば、同じ事柄であるのに文字遣いが異なる場合もある。これらはよくよく調べて各々の意味するところを考えねばならず、定例にこだわってはならぬ」(*4)に言及し、さらに「春秋を学ぶものは、程子の『春秋伝』を熟読玩味しなければならぬ」とも言うが、絶えて一字も安国に言及がない。これはその師良鈞の学問が程子を宗旨としていたものの、程子の『春秋伝』は未完成であり、また胡伝は当代好評を博していたために、〔やむを得ず胡伝を〕三伝と並置したものと考えられる。本書全体を読めばその主張はほぼ明らかであるが、明代の学者のように胡伝を経文の如く重んじたものとは全く異なるものである。

『四庫全書総目提要』巻二十八



(*1)四伝は春秋三伝に胡安国『春秋伝』を加えたもの。
(*2)胡安国の『春秋伝』を略して胡伝とよぶ。
(*3)呉澄の序文は『呉文正文集』巻20春秋集伝釈義序に見えるが、通志堂本『釈義大成』には存在しない。ただし『経義考』には兪皐の自序とともに序文も引用されている。
(*4)程頤『春秋伝』自序に見える言葉。

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