斉履謙『春秋諸国統紀』六巻『目録』一巻

○浙江呉玉墀家蔵本

元の斉履謙の撰。履謙、字は伯恒、大名の人。史院使になった。その生涯は『元史』本伝に見える。本書は延祐丁巳に国子司業のとき作られたものである。

本書冒頭に自序(*1)があり、そこで「今の春秋は聖人が二十国の史記を合わせて作ったものである。三伝がただ褒貶のみを追求してからというもの、諸国の分合と春秋の春秋たる所以についてほとんど言及されなくなった。だから本書によってそれらを論述し、諸学者の闕失を補おうと思う」と言っている。

本書は全二十二篇。まず魯があり、次に周、次に宋、次に斉、次に晉、次に衛、次に蔡、次に陳、次に鄭、次に曹、次に秦、次に薛、次に杞、次に滕、次に莒、次に邾、次に許、次に宿、次に楚、次に呉が配列されている。魯は自国のこととして、周には敬意を表し〔て特別に冒頭に置くほか〕、それ以外は各々五等の爵の順に配列している。春秋開始以後に爵を降格された諸侯は、降格された爵によって配列している。また楚と呉は王号を僭称したので最後に置かれている。『目録』には「これらの国々はいずれも国史があったので、聖人はそれに基づいて春秋を作った」とある(*2)。さらに小国と亡国を二篇にまとめて巻末に附している。『目録』には「これらの国には国史がなかったので、上の二十国に関係することについてのみ掲載した」とある。各国ごとにまず国勢の盛衰と配列順序の理由を論述し(*3)、「某国春秋統紀」と名付けている。これらはおそらく『墨子』の「百国春秋」や徐彦『公羊疏』の「孔子は周の史記を求め、百二十国の宝書を手に入れた」などの言葉に基づいたものであろう。そのため履謙は「春秋は魯の国史に基づいて作ったものであり、国史は赴告の言葉によって作ったものである」との学説に従わなかったのである(*4)。

そもそも春秋がもし魯の国史に基づかないなら、魯の十二公の年を用いるはずがない。もし赴告を用いないなら、僖公以後は晉について特に詳しいのに、僖公以前は晉について全く記載のないはずがない。これらは雑説に惑い、経文に即して考究しなかったことによるのであろう。

また魯の国史は周王の年を記載しない。これに対して、魯を自国のこととみなしたからだというのはまあ宜しい。しかし履謙は各国を分類して、魯を第一とし、周を第二に置いているが、春秋では王人は身分の卑しいものであっても諸侯の上に置くのである。ましてや天王であればどうであろうか。

また隠公八年に蔡の宣公を葬り、宣公の十七年に蔡文公を葬ったことは、どちらも経文にはっきり書かれてある。ところが履謙はこの二条を引き漏らしたばかりか、桓公の十七年に蔡の桓侯を葬ったところで、「諸国はみな公爵を僭称していたが、ただ蔡の国だけは旧来のやり方を守っていた」といって、左氏伝を証拠として引用している。全く滅茶苦茶である。

また桓公の三年の経文には「夫人姜氏、斉より至る」とあり、六年には「九月丁卯、子同生る」とあるが、これらはことさら疑問とすべきものではない。穀梁伝に「疑念あるが故に記した」とあるが、これは事実に基づくものではない。ところが履謙は、荘公は斉侯の子供だと言っている(*5)。これなどは最もひどい間違いである。

しかし本書は巧みに経文を分類しており、頗る閲覧に便利であり、その論述にもまま見るべきところがある。だから本書を『四庫全書』に残すことにした。呉澄の序文に「本書は経文の隅々にまで目を通し、書法に合致すべく尽力している。まま深読みしすぎた嫌いもあるが、これとていい加減に論述したものではない」とある。美点でもって欠点を隠し得なかったこと、既に澄がその微辞に示している。

『四庫全書総目提要』巻二十八



(*1)正確には目録の総序を指す。
(*2)目録の最後に見える。下も同じ。
(*3)各国の目録序文を指す。
(*4)春秋は魯の国史に基づいて作ったと考えるのが普通の考え方である。しかし斉履謙は、春秋は各国の歴史書をもちよって作ったと考えた。だから春秋を再び各国の国史に分類しようとしたのである。
(*5)魯の荘公は斉の襄公の子供だという説がある。桓公六年の経文「子同生る」の同は荘公のことだが、他に魯君の誕生を記した経文はない。荘公だけが特別に記されるのはなぜか。これに対して穀梁伝は「荘公は斉の襄公の子供ではないか」との疑念があるゆえに、経文に敢えてその誕生を記したのだとする。『毛詩』にも似た学説があり、少しく論争になるところではあるが、通常は採用されない学説である。

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