程端学『春秋本義』三十巻

○両江総督採進本

元の程端学の撰。端学、字は時叔、号は積斎。慶元の人。至治元年に進士第二で合格した。国子助教から翰林国史院編修官になった。その生涯は『元史』韓性伝(儒学伝)に附されている。本書は端学が国子監にいたとき作ったものである。

本書所収の学説は、三伝以下、全百七十六家。巻首にその書目を列挙している。『寧波府志』と『千頃堂書目』は「一百三十家の学説を採った」とするが、その根拠は詳らかにし難い。巻頭に通論一篇、問答一篇、綱領一篇があり、その次に経文の下に諸他の学説を配している。多くの学説を順序だてて並べ、まま自身の案語を附しているが、左氏伝の事跡もそれら学説の間に混ぜており、注釈の体裁としては頗る蕪雑である。

本書は「通常の事柄は春秋に記述されない」「春秋は貶なすのみで褒めない」(*1)という主張を根幹においている。そのため証拠として引用された学説はすべて孫復以後のものであり、往々にして煩瑣で支離滅裂に陥り、勝手に推論を加え、あらゆる事跡についてそれが貶なされたものである理由を追求している。

例えば、経文に「紀の履履緰、来りて女を逆う。伯姫、紀に嫁ぐ」(*2)とある。これは事柄を書いただけで、もともと褒貶には関わりない。ところが端学は「履履緰は命卿でない。紀は魯に来迎してはならぬし、魯も来迎を許してはならぬ」(*3)と力説している。確かに履履緰が命卿であったという明文はないが、命卿でなかったという根拠もないのである。また紀の叔姫が酅に帰ったこと(*4)について、旧来の学説では〔嫁ぎ先の〕盛衰でもって心を変えず、夫の一族に帰ったことを褒めたものだとする。しかし端学は「魯に帰るべきであって、酅に帰るべきでなかった」と力説している。これなどは既に深読みのし過ぎであるばかりでなく、「紀季は〔妾としての〕節を失った」と誣告までしている(*5)。これらは何を根拠に発言したのであろうか。

宋代の学者が左氏伝を批判したのは、経文と矛盾のあるところ――例えば経文に「楚子麋、卒す」とあるのに、伝に「弑された」とするようなところ(*6)――だけであった。ところが端学は〔都合の悪い左氏伝の〕あらゆる事柄に対して「真偽不明」という。これでは天下に信頼できる古書はなくなってしまうだろう。

しかし本書は胡安国の『春秋伝』を適切に補正している。また本書引用の一百七十六家は既にその大半が散佚したが、本書はまだその梗概を残している。そこでしばらく『四庫全書』に残して参考に備えることにした。

『四庫全書総目提要』巻二十八



(*1)「常事不書」と「有貶無褒」を指す。いずれも宋代に常用される春秋解釈方法である。
(*2)隠公2年。
(*3)『本義』該当箇所は「愚謂逆非命卿、魯又順其非礼、即使伯姫随其大夫以往、非礼矣」となっている。
(*4)荘公12年。
(*5)『本義』該当箇所は「愚謂国君死社稷、其兄弟臣妾可知也。紀国既亡、叔姫死之可也。而帰依於叛兄之叔、失節甚矣」となっている。「心を変えぬ」云々は、紀が斉に滅ぼされた後、紀に嫁いでいた魯の姫君は、母国の魯に帰国せず、嫁ぎ先の紀の末裔に帰ったことを指す。
(*6)昭公元年。

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