程端学『春秋或問』十巻

○浙江范懋柱家天一閣蔵本

元の程端学の撰。端学は『春秋本義』をまとめた後、諸説の長所と短所を列挙し、〔『本義』に於ける〕取捨の意図を明示すべく本書を著した。『本義』とともに読まるべきものであろう。

本書の最大の間違いは、「周は夏正を用いた」とする学説を墨守したことにある(*1)。端学の論述は一万余言に及んでいるが、一つとして正しいところがない。それどころか隠公元年の経文に隠公の即位を記述しないことに対して、「隠公の即位は前年十一月にあったはずである。だから正月には即位を記述しなかったのだ」と言い、「正月は改めても月は改めなかった」ことの証拠としている(*2)。これなどはもはや批判の必要さえないであろう。

しかし他の部分はむしろ『本義』に優っているところがある。そもそも『本義』は孫復の学説に従ったもので、そもそも根本が間違っていたのである。だから一つ一つ必ず経文を穿鑿して、聖人の貶なした理由を追求することになる。そして経文に貶なしたところが見あたらなければ、必ず別の事柄や人間を用いて罪に当てているが(*3)、結局は支離滅裂に陥り、往々にして経文の主旨との乖離を起こしている。本書は多くの学説に反駁したものである。三伝を疑い過ぎた点は否めないが、宋代の学者の支離滅裂な学説や牽強付会の論述に対しては、一転してそこに批判を加えている。ならば『本義』の間違いは、先学の間違いを取り除いた後、みずからまた間違いを生み出したことにある。本書に見える駁正が全て不当だと言うわけではないのである。短所を棄てて長所を取ればよく、軽々しく捨て去ってよいものではない。

『四庫全書総目提要』巻二十八



(*1)胡安国の以夏時冠周月説に類似した学説。あるいは胡安国のこの学説を発展させたもの。
(*2)周正は夏正よりも二ヶ月早いわけだから、夏正の十一月が周正の正月にあたる。随って、隠公は夏正の十一月に即位したはずである。だから夏正の正月には即位が書かれていない。あるいは逆に、これが成り立つならば、周王朝のやり方では、夏正十一月を正月とするが、それは「みなしている」だけで、実際に夏正十一月を正月、夏正十二月を二月というように月の記述そのものを改めたわけではなかったのだ、ということにもなる。
(*3)あらゆる経文は聖人がなにかを貶すために記述したとする立場(有貶無褒)に立つ限り、あらゆる経文に対して、それがなにを貶すために記述したのか、その理由を探る必要が生まれる。しかし経文は貶されたものばかりでなく、褒め称えたものもあれば、褒貶に関係ないものもある。このため有貶無褒の立場によって経文を解釈すると矛盾が生まれる。しかも貶された理由を探そうとするあまり、本来該当経文に無関係の事柄や人物までもちよって、その経文は某々を貶すために記述されたのだと言い張るようになる。かくして支離滅裂な学説が生まれる。四庫官の立場を説明すると以上のようになる。

inserted by FC2 system