程端学『春秋三伝辨疑』二十巻

○永楽大典本

元の程端学の撰。本書は三伝批判を行ったものである。端学が疑念をもった全ての場所に対し、経文と伝文を節録してその是非を検証している。しかしそのほとんどは始めから三伝を否定しようと心に決め、あらゆる方向から三伝の欠点を探し出したものである。そしてもし欠点が見つからなければ、「〔伝のいうことなど〕信じられぬ」と言い捨てている。

そもそも三伝を疑うようになったのは啖助と趙匡からである(原注。韓愈の盧仝に贈った詩に「春秋三伝を高閣に束ね、独り遺経を抱えて終始を究む」の句がある。仝は啖や趙と同時代の人であり、恐らく啖趙両氏の学説を宗旨としたのあろう。仝の『春秋摘微』はもう残っていないので、ここでは現存の書物を基準に啖助と趙匡の二人のみをあげることにする)。この傾向は後に三派に分かれた。第一の孫復『尊王発微』以下の立場は、三伝に見向きもせず、三伝批判すらしない一派である。第二の劉敞『春秋権衡』以下の立場は、三伝の義例を批判した一派である。第三の葉夢得『春秋讞』以下の立場は、三伝の典故を批判した一派である。ところが端学ときてはこの三派をすべて兼ねたばかりか、さらには左氏伝を偽書だと考えるようになった。著しく学問の根本を狂わせ、道理を顧みない立場である。端学に至って三伝批判の弊害は極まったと言えるだろう。

平静に論ずれば、左氏はみずから国史を修めたのであるから、その記録は最も信用できる。公羊と穀梁は聖人と近い時代に生きていたのだから、まだしも聖人の意図を知り得たはずである。それらを排斥して全く信用できぬと言ってしまっては、世の中に信用できる書物などなくなってしまうだろう。本書は虚言を弄して真偽を判定しようとし、尊敬すべき先学を侮辱したものである。しかしながら褒貶の義例という点からすれば、左氏の意見はもとより杜撰であるし、さりとて公羊と穀梁の両家も口授によったためか、経師の私説が付加されており、三家とも後学の精密さには及ばない。端学のこの書は、書法を研究し、三伝の是非を駁正した点に於いて、千慮に一得がないわけではない。ならば端学の大胆不敵を憎んでその学説までも廃絶してしまってはなるまい。

『通志堂経解』には『本義』と『或問』のみ収められ、本書は収められていない。納蘭性徳の序文によると、欠落があったので収録を見合わせたとある。この本は浙江の呉玉墀の家蔵本である。第一巻は虫食いが特に甚だしく、数文字しか残っていない行もあった。しかし第二巻以下は完全な状態のままであった。そこでこのたび『永楽大典』所載の本文によって呉氏家蔵本を増訂し、ふたたび完本にもどした(*1)。

呉氏家蔵本は、左氏伝掲載の事柄に対して、各条文下に「本義に非ざれば記録せず」という書き入れがある。これは端学の脱稿時に削除すべく貼っておいた簽題を、書写の者が間違って残してしまったのであろう。原本がこうであるから、この度の編集でもそのままにしておいた。

『四庫全書総目提要』巻二十八



(*1)提要の内容を推せば、呉氏家蔵本を底本に永楽大典本で校正したことになる。訳者は呉氏家蔵本や元版と四庫本を比較したことがないので、提要の真偽のほどは不明である。

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