王元杰『春秋讞義』九巻

○浙江汪啓淑家蔵本

元の王元杰の撰。元杰、字は子英、呉江の人。至正年間に郷里の推薦を受けたが、兵乱のため仕官せず、郷里で学問の教授に勤しみ、その生涯を終えた。

むかし程子は『春秋伝』を書こうとして果たせず、朱子も春秋を論じつつ専著はなかった。元杰は程子と朱子の発言を集めて経文の下に置き、さらに胡安国の『春秋伝』を節録して完備を期している。しかし安国の『春秋伝』の完成は朱子以前であるのに、本書では朱子の後ろに配置されている。偉大なる朱子と安国を区別すべく、あえて時代の前後にこだわらなかったのであろう。また隠公四年の州吁の条には朱子の邶風撃鼓篇の解釈が全文引用されているが、朱子の言葉は春秋の書法と無関係である。これなども朱子を尊崇するあまり、一文字たりとも朱子の文字を削りたくなかったがためにそうしたのであろう。

程子・朱子・胡安国の解釈の末尾に「讞に曰く」の標識を設けて三者と区別し、元杰自身の意見を付している。しかし、例えば桓公四年の紀侯大去の条など、程子は大を紀侯の名であると言い(*1)、主として紀を批判し、斉を批判しない。ところが元杰の讞は縷々と紀を弁護し、程子の学説に従っていない。しかし本書を通じて、朱子に対しては一文字たりとも異論を唱えていない。元杰の宗旨を伺うに充分である。

恭しく『御題詩註』を拝読したところ、元杰は程朱の奴隷であるとのご指摘があった。全くもって頑迷固陋なこの学者の謬見を破るに十分なお言葉である。また本書は葉夢得の間違いを襲い、「讞」を書名としている。これもまた『御題』に厳禁される通りであり、そのお言葉は法家が罪人を処罰するごとき目で春秋を論ずるものを戒めるに十分である。しかし本書は伝来の学説に依拠しており、これを師説なき勝手な論述〔をする明代の学者〕(*2)に比べるなら、まだしもましである。そのため『四庫全書』に収録し、さらに敬しく聖訓を述べ、右の如くその欠点を明白にしておいた。

原書十二巻は長らく刊本がなかった。現在どの蔵書も後三巻を欠き、校補する術がない。そのためしばらくこのままにしておきたい。

『四庫全書総目提要』巻二十八



(*1)経文には紀侯大去其国とある。普通は「紀侯、其の国を大去す」と訓むのだが、程頤は新説を出して、「紀侯大、其の国を去る」と訓む。つまり「大」は「大去」の「大」ではなく、紀侯の名だというのである。
(*2)書前提要には「差勝明代諸儒無師瞽説」とあり、明代の春秋学者を指しての発言であったことが分かる。

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