李廉『春秋諸伝会通』二十四巻

○浙江范懋柱家天一閣蔵本

元の李廉の撰。廉、字は行廬、廬陵の人。明の楊士奇の『東里集』には、「廉は至正壬午に春秋科で科挙を受け、陳祖仁の榜の進士となった。信豊令になったが、元末の叛乱のため臣節を守って死んだ。当時は情報の伝達が難しく、廉の節義を称えるいとまがなかった。また明初に『元史』を編集したときには、関係部署に知り合いがおらず、所管の官僚も廉のことを上奏できなかった。このため史書に漏れたのである」とある。ならば廉は明らかに忠義の士であり、空言を弄んで経文を解釈した学者ではなかったのである(*1)。

本書は諸家の学説を集成したものである。本書の自序には「左氏を先に置くのは、事柄が書かれてあるからである。公羊と穀梁を次に置くのは、はじめて経を解釈したものだからである。三伝の注を次に置くのは、専門を重んじてである。義疏を次に置くのは、疑問のあるところを釈したからである。胡氏によって総括するのは、判断を重んじてである。陳氏と張氏を並べたは、その長所を選んでである。さらに他の学説と典籍を持ち寄り、節略を加えて参考に供した。解釈の異同、義理の是非、物事の本末については心を尽くした」とある。そのため本書は胡氏を基準に据えてはいるが、実に多くの駁正を加えている。また参照した学説もよくその長所を選んでいる。一事の疑念や一辞の異同に対しても、一つの矛盾もおこらぬよう、ほどよい解釈に導いている。

例えば「仲子は正妻でないのだから、隠公を摂政と言うわけにはいかぬ」(*2)と言い、「斉の桓公が伯者になれたのは、先々代の僖公と先代の襄公のおかげである」(*3)と言い、「三桓の勢力が大きくなったのは、魯の僖公の時代に原因があった」(*4)と言い、「経文に『呉が越を夫椒で破った』ことの記事がないのは、結果として復讐できなかったことを責めてである」(*5)と言い、「経文に『昭公を葬った』とあるのは、魯が季氏を反逆者として処断しなかったことを批判してである」(*6)と言い、「経文に『劉文公を葬った』とあるのは、畿内の諸侯の僭越を批判してである」(*7)と言い、「経文に『蛇淵囿を築く』とあるのは、定公が斉から美女と音楽を受け、その志が荒れたことを批判してである」(*8)と言う。これらの議論はどれも明白正大である。また総論百余条(*9)も春秋の事柄と道理の均衡を測ったものであり、最も属辞比事の宗旨を得たものである。このため本書の学説は『欽定春秋伝説彙纂』に多く採用されるところとなった。

廉の自序には至正九年已丑とあるほか、「経を読むこと三十年、分外にも進士の名を頂いて郷里に帰り、困難な職務を忝なくした。〔......〕かくして本書が完成した」(*10)とも言っている。『元史』によると、陳祖仁の榜は順帝の至正二年に当たる。ならば廉は科挙再開の年の進士であり、官僚になったのはかなり年を取ってからということになる。それまで門を閉ざして著述に励み、古来の学問に心を潜ませていたのであろう。科挙のためにした学問ではなかったのである。

『四庫全書総目提要』巻二十八



(*1)春秋は正名の学問だから、「春秋を修める=死節を守る」となる。なお楊士奇の言葉は『東里集』続集巻16春秋会通に見える。
(*2)巻1の隠公(標識)の注(案語)に見える。以下、いずれも李廉の案語中の言葉。
(*3)隠8宋公齊侯衛侯盟于瓦屋条に瓦屋の盟を説明して、「然鄭莊固挟齊以自強、齊僖亦資鄭以糾合。故瓦屋雖以王爵尊宋、而明年宋公不王之罪、又發於鄭人。是齊僖陽尊宋衞、而陰固鄭黨、宋衞不悟、而僖襄之小伯。桓公之創伯、皆原於此矣」とあるのによるか。 (*4)巻11僖公篇の最後の注。「案:僖公在位三十三年、實為魯之賢君。當其初歳、内用公子友、臧文仲、外則堅事齊桓。故能去慶父之姦蠧、使魯國既危而復安。……蓋自十六年季友卒、後臧文仲之竊位、公子遂之專權、如滅項會楚之失、備見於經。……此僖之不得全為賢侯也。況乎季友受費、而季孫氏始;公孫茲帥師、而叔孫氏始;公孫敖帥師、而孟孫氏始。三桓之基、皆肇於僖公之編、則僖公亦魯國功之首、罪之魁也歟」とある。
(*5)哀1仲孫何忌帥師伐邾の附注。
(*6)定1葬我君昭公条。
(*7)定4葬劉文公条。
(*8)定13築蛇淵囿条。ただし四庫官の引用は案語と少しくずれがある。
(*9)本書に総論はない。おそらく読春秋綱領のことを指して言ったものであろう。
(*10)激務の仕事を与えられて書物が完成したというのでは意味が分からない。李廉の自序には、激務の仕事を与えられ、また自身の記憶も曖昧になったとき、近年世に出回る多くの解釈書が杜撰であることを知り、根本を抑えることの必要性を痛感したので、年来の自身の学問を注ぎ込んで本書を完成させた、とある。

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