鄭玉『春秋経伝闕疑』四十五巻

○浙江鮑士恭家蔵本

元の鄭玉の撰。玉の生涯は『元史』忠義伝に詳しい。本書の体裁は、経を綱領、伝を小目としたものである(*1)。事柄の叙述には主として左氏伝を用い、公羊と穀梁を附録としている。立論に際しては、公羊伝と穀梁伝を先に用い、さらに歴代学者の学説を参照している。経文に残欠があると思われる場合は、多くの古籍を考究して補正を加え、伝に錯誤があると思われる場合は、経文に照らしてその誤謬を明らかにしている。概ね冷静に処置されており、聖人の心を得た部分が多い。他の著書に『師山集』があり、その中に『春秋闕疑』の刊行を王季温に依頼した書簡が残っている(*2)。捕らわれの中、死を決意しながら、なおも本書の刊行に気を揉んでいる。その生涯の精力を注いだものだったのだろう(*3)。

本書の序文には、「通常の事柄はそのまま記すだけで意味するところは明白である。重大事は文を変えることで主旨が明白になる。春秋には魯史の旧文と聖人の特筆とがある。一文字一文字の意味を追求するあまり、経書を酷吏の刑書の如く考えるのは間違いだが、だからといって一文字一文字には全く意味などなく、単なる史官の記録にすぎないと考えるのも間違いである」とあり、また「聖人の経文は文字こそ簡略だが、その意味するところは奥深い。もとより浅学の身で理解し尽くせるものではない。そのため歳月久しくして益々残欠がひどくなったのである。それを想像に任せて勝手に補修してよいものだろうか。理解しがたいものを無理に解釈して当世に譏りを受けるよりは、分からぬところは分からぬままにして、後世の知者に委ねた方がよい」とも言っている。これらの論述はどれも卓越した見識であり、深く経書解釈の要点を抑えたものである。そのため開巻劈頭の周正夏正の問題に対しては、道理明白であるにもかかわらず、心に疑念があるというので、決断を保留している。慎重の極みである。かつて程端学は『春秋本義』等の三書を著したが、それは至正年間に朝廷で刊行され、久しくして定論を見たと言われた。しかし人々は結局玉の本書を重んじた(*4)。玉は聖人の心を明らかにして世教に役立たせるべく本書を著したが、端学は三伝を批判して名誉をかすめ取とるべく書を著した。――恐らくや両者の心の公私が全く別物だったからだろう。

玉、字は子美、歙県の人。元朝末期に翰林待制を授けられたが、病気を理由に辞退した。明の兵が徽州に入ったとき、守備隊長が降伏を強要したが、玉は屈することなく死節を守った。宋の呂大圭および同時代の李廉とともに、まことに大義を知った、春秋学徒としての名に恥じぬ人物と言えるだろう。明の郞瑛の『七修類稿』には、「玉は元朝の爵を受けなかったのだから、当然ながら明に仕えるべきだった。玉は生きるべくして死んだと言うべきだ」(*5)とある。これは全くの間違いである。伯夷と叔斉は殷の爵を受けたことがあったのだろうか。瑛の放談はいわゆる「小人は議論を好んで人の美点を喜ばぬ」というものである。

『四庫全書総目提要』巻二十八



(*1)書前提要には「至於朱子綱目體例、本仿春秋經傳而作、序乃謂以經為綱、以傳為目、仿朱子之體例、則所言不免倒置耳」と批判的な意見を加えている。
(*2)『師山集』遺文巻3の屬王季温刊春秋闕疑を指す。
(*3)以下の文は書前提要にない。これ以上は概ね書前提要と同じだが、文字の異同は大きい。
(*4)典拠不詳。
(*5)未見。同書は『四庫全書』存目に書名が見える。『七修類稿』提要に於いても、その末尾に「書中極詆『説郛』『輟耕錄』、然此編實出此二書下、所謂人苦不自知也」と批判を加えている。

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