張以寧『春王正月考』二巻

○両江総督採進本

明の張以寧の撰。以寧、字は志道、古田の人。元の泰定丁卯の進士で、翰林侍講学士になった。明朝でもそのままだった(*1)。洪武二年に安南王冊封の使者となったが、その帰路に死んだ。生涯は『明史』文苑伝に見える。史書(*2)には「以寧は春秋科を優れた成績で合格した。学問も春秋にもっとも精しく、自得するところも多かった。著書の『胡伝辨疑』は特に優れた批判書だったが、『春王正月考』はまだ完成できないでいた。安南を訪れたとき、半年かかって完成させた」とある。『胡伝辨疑』は既に散佚し、本書だけが残っている。

そもそも三正は代ごとに改められ、時と月もそれに伴って改められた。経文は「正月」を「王」に繋げているのだから、周正であることは論を待たない(*3)。正月と正歳の二つの名称が『周礼』に載っているが(*4)、両正を並用するのも周室のやり方である。左氏がその伝で特に「王周の正月」と指摘しているのだから、正月が建子(*5)であることに疑いはないのである。漢朝以来これに対する異議もなかった。

唐の劉知幾は『史通』で始めて春秋を夏正だと言ったが(*6)、その説を信じるものはいなかった。程子が〔『論語』に〕「夏の時を行う」とあるのに惑ってからというもの(*7)、程子の盛名の下、多くの人々がこれを弁護するようになった。かくして胡安国はついに「夏時を以て周月に冠す」なる学説を実地の解釈に移し、程端学は『春秋或問』で頑なにこの学説を守ろうとし、梅賾の偽書(*8)を根拠に支離滅裂な言説を弄した。しかしその正しさを証明しようとすればするほど、ますます矛盾を露呈することになったのである。

そもそも左氏が虚言に欺かれ、偶然にも真実を曲げるということは確かにある。しかし現在の王朝の正朔などは女や子供でも知っているのである。それを左氏が間違うはずがあるまい。もし程子の言うように左氏が秦の人だとしても、秦は周王朝の末期からわずか数十年しか経過していないのである。そうも早く前代の正朔を忘れるとは考えられない。しかし〔程子や胡安国らの〕学説が横行してからというもの、世の中には真実がなにであるか分からなくなってしまった。ところが以寧は五経を軸に『史記』や『漢書』を参照して本書を著し、数百年の疑案を氷解させたのである。ならば優れた見識の持ち主だと言わねばなるまい。

春秋の時代、かつての帝王の子孫(*9)には、先代の正朔を用いることが許されていた。だから宋は商正(*10)を用いていたのであり、これは長葛に対する左氏伝によって確認できる(*11)。諸侯の国にも夏正を用いたものがあった。だから左氏伝が晉について書く場合は、いつも二ヶ月のずれがある。古籍の記述にもままずれが確認できる。後代の学者が夏時説を主張したのは、ここに原因があったのである。

以寧はこのずれの根本的原因を衝くことができていない。また『尚書』の伊訓・泰誓の諸篇は全て古文であり、根拠とするに足らぬものであるのに、以寧はなおもそれらが偽作であることが分かっていない(*12)。また『周礼』に見える正歳・正月の兼用についても、鄭玄の注を数語引用するのみで、まだ明晰な言葉で疑念をぬぐいさることができていない。このように本書の弁証はいまだ精密とはいい難い。しかしその大綱は既に正しいのであるから、細かいところに少しく隙があっても、さして非難するに当たらないだろう。

『四庫全書総目提要』巻二十八



(*1)『明史』文苑伝には、張以寧は元朝で翰林侍読学士となり、明朝でまた翰林侍講学士を授けられたとあり、この記述と矛盾する。
(*2)『明史』本伝のこと。
(*3)経文に春王正月と書かれてあることを指す。「王」+「正月」だから、正月は「王の正月」即ち「周王の正月」である。周王は周の暦(周正)を用いている。随って、経文に「周王の暦を用いた場合の正月」とあるのだから、「正月」が周正の正月であるのは当たり前だということになる。
(*4)正月は周の正月、正歳は夏の正月を指す。
(*5)建子は周の正月のこと。
(*6)劉知幾の発言は不詳。『史通』巻8(模擬篇)に「春秋諸國皆用夏正、魯以行天子禮樂、故獨用周家正朔。至如書元年春王正月者、年則魯君之年、月則周王之月。(考『竹書紀年』始達此義、而自古説春秋者、皆妄為解釋也)」とあるが、これだと春秋の月は周正になる。なお呉鼐『三正考』は劉知幾の学説を収録していない。
(*7)胡安国の夏時説の根拠として有名な解釈。程頤『春秋伝』隠1春王正月条に「周正月、非春也。假天時、以立義爾」とある。これに対して、呉鼐『三正考』巻2(河南之誤)は「朱子曰:此以春字為夫子所加。但魯史本謂之春秋、則又似元有春字。趙氏汸曰:假天時以立義、此胡氏夏時冠周月之所從出也」の二説を援用し、「呉鼐按:程子之説、以周為改月不改時、魯史本書冬正月、冬二月、春三月、而夫子改為春正月、春二月、春三月也。如此則周本以寅、卯、辰為春、與夏時同;夫子反以子、丑、寅為春、與夏時異也。一誤於周之不改時、再誤於孔子之改周時、而後儒之紛紜糾葛、從此起矣」とまとめている。
(*8)ここでは『尚書』泰誓篇や伊訓篇を指す。
(*9)具体的には夏の末裔である杞や商の末裔である宋を指す。
(*10)商正は商の暦のこと。
(*11)恐らく隠6の冬宋人取長葛を指すものと思われる。同経文に対して、左氏伝は「秋宋人取長葛」と記しており、経文の冬と矛盾する。杜預は「秋取、冬乃告也。上有伐鄭圍長葛」と釈明する。『欽定伝説彙纂』巻2は「案:經書冬、左傳作秋。杜氏預謂:秋取冬告、引八年齊侯告成為證。其義甚明。劉氏敞以為左傳雜取諸侯史朔策、有用夏正者、有用周正者、故經所云冬、傳謂之秋也。似亦有理」と釈しており、夏時説の可能性も否定していない。
(*12)この問題は閻若璩の『尚書古文疏證』によって始めて明らかにされる。しかし張以寧と同時代の趙汸はその『左氏補注』に於いて、古文やその孔伝が偽書であることに言及している。随って、張以寧の時代に全く着想し得なかった問題ではない。

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