王当『春秋列国諸臣伝』三十巻

○両江総督採進本

宋の王当の撰。当、字は子思、眉山の人。元祐年間、蘇軾が賢良方正科に推薦した。当の対策は四等で合格し、龍游県尉を授けられた。蔡京が成都府知事になると当を学官に推挙したが、これを断った。京が宰相になると、ついに仕官を諦めた。その生涯は『宋史』本伝に見える。

史書(*1)によると、当はむかし科挙に落ちたことがあったらしく、そのとき田舎に引き込み、嘆いてこういった。――「士としてこの世に生まれたならば、仕官し得ぬとあらば必ずや言葉を残さねばならぬ。」かくして『列国名臣伝』五十巻を著した、と。ならば本書は朝廷に仕える前に書かれたものである。

本書に立伝されたものは全一百九十一人。各伝の後に論評を附している。陳振孫の『書録解題』には「論述は純正で、文章は簡古。聖人の教えに対しても発明するところが多い」と言っている。しかし本書を調査したところ、例えば「魯の哀公がもし陳恆を討伐したならば、すぐにでも諸侯を従え得たであろう」と言うところなどは、非理の議論としか言いようがなく、全く聖人の考えとは異なっている。史書(*2)によると、当は古人を広く見渡し、王佐の才ある人だけを好んでいたとある。当の学問は実用を重んじたものだったのだであろう。だから本書にも如上の意見を出したのではあるまいか。しかしながら本書は時代の移ろいをまとめるべく、前後に『国語』や『史記』などを引証しては左氏伝の闕略を補っており、該博にして余すところがない。経文や伝文に対して有益であるには違いない。

ところで『宋史』芸文志は本書を五十一巻とするのに、本伝では五十巻としており、両者ともにこの本と異同がある。三と五とは字形が類似しているので、鈔写したものが書き損ねたのだろう。

『玉海』によると、本書とは別に、当と同時代の長楽の鄭昂(字は尚明)に言及し、そこで「昴も『春秋臣伝』三十巻を作り、人物ごとに事件をまとめたが、それは全二百十五人の伝記で、三十九人の附伝のあるものだった」と指摘している。これは『宋史』芸文志にも記録がある。本書と同名で、ただ「列国」の字がないだけである。後世の人々は当の本書を『春秋臣伝』と省略する場合があるが、これだと昴の書物と混乱してしまう。そこでこの度は書名に旧来の名称を用いることで、両者を区別させることにした。

『四庫全書総目提要』巻五十七(史部伝記類一)



(*1)『宋史』本伝(儒林伝2)のこと。
(*2)『宋史』本伝の言葉だが、そこには「幼好學、博覽古今、所取惟王佐大略。嘗謂三公論道經邦、燮理陰陽、填撫四方、親附百姓、皆出於一道、其言之雖大、其行之甚易。嘗舉進士不中、退居田野、歎曰:『士之居世、苟不見其用、必見其言。』遂著春秋列國名臣傳五十卷、人競傳之」とあり、「王佐大略云々」が『列国臣伝』に直接繋るわけではない。随って四庫官が「蓋其學頗講作用、故其説云然」とするように、「蓋」の域を超えない。

inserted by FC2 system