程頤『春秋伝』

○『二程全書』『程氏経説』等所収

『春秋伝』二巻

程頤の撰。大義のあらましを述べたもので、全書にわたる注釈書ではない。襄公・昭公以降は特に省略が甚だしい。序文に崇寧二年の作とあれば、晩年の作であろう。(『書録解題』巻三)

『書録解題』の程頤『春秋伝』がどのようなものであったかは既に詳らかにし難い。現在『春秋伝』は単行されておらず、程頤の『春秋伝』というと『二程全書』『程氏経説』などに収められた「春秋伝」(『経説』巻四)を指すことになっている。

現行本は桓公九年に注記があり、「先生(程頤)は『春秋伝』をお作りになったが、ここまでで筆を擱かれた。そこでかつて先生が解説されたものを集めて以後に付した」とある。これによれば、程頤は桓公九年まで注釈を完成させ、それ以後は文字を置かなかった如くであり、随って桓公十年以後は程頤の完成した注釈ではなく、折に触れて程頤が発言した言葉を、後学が関係経文に付したものということになる。

これについて一、二の問題点を挙げておく。まず現行本の注記によると、桓公九年以前は完成していた如くであるが、仮にこの指摘が正しくとも、あくまでも程頤が完成させたのは解釈文のみであり、完全な注釈ではなかったとしなければならない。現行本の桓公九年以前について見ても、経文の引用をみない部分を発見し得るからである。

経文の引用を欠く部分は、桓公九年の夏四月や秋七月といった、恐らく程頤が解釈の必要を認めなかったところである。経学や春秋学になじみがない人には、解釈の必要ない経文は引用されずとも問題ないように思うかも知れない。しかしそれは程頤の語録などを読んで程頤の思想を理解することに慣れた人の考えることである。経学の中心はあくまでも経文であり、その経文に注釈者が臨んで注文を付すものである。もし注釈の必要を認めた経文のみを自己の注釈書に残すというのであれば、それは経文に注釈したのではなく、経文の気に入った箇所だけ論評しもの、例えば春秋論とよばれる論評形式の文章か、箚記の如きものになってしまう。これらは経解とよべないのである。経解はあくまでも経文が中心なのである。随って現行本の桓公九年以前に於いても、これが程頤の完成させた原稿そのものでないのは明白である。

つぎに『書録解題』によると、襄公昭公以降は特に省略がひどいというが、現行本『春秋伝』について見る限り、襄公以降の解釈が特別少ないようには思われない。確かに襄公と昭公は各々三十年を超える在位期間があるに比べると、佚文は極度に少ない。しかし昭公の後の定公と哀公を見る限り、文公宣公成公の三篇の分量とさして変わらない。随って『書録解題』の指摘には賛同しかねる。

それにしても不思議なのは、『書録解題』が上に見た現行本の注記に何等言及しないことである。知っていたが敢えて発言しなかったとも考えられるし、またいい加減に書物を斜め読みしたので気づかなかったのかも知れず、あるいは人から聞いたものを書いただけかも知れず、可能性はいくらでも考えられる。しかし仮に『書録解題』の指摘する本が現行本と同質のものであるとすれば、『書録解題』の解説はすこぶる杜撰なものと言わねばならず、逆に『書録解題』所収のものと現行本が異なるのであれば(つまり桓公十年以後の記述がない本であれば)、それはそれで現在に難問を遺すことになる。

程頤『春秋伝』の流伝を調べる方法はいくつかあり、私もかつて調べたことがある。しかし詳細は述べるに及ぶまい。結果だけ言っておくと、南宋から元朝にかけての学者にとって、程頤の春秋学説というものは、現行本『春秋伝』とほぼ重複するものであった。随って、とりあえず現行本の程頤『春秋伝』を確認すれば、南宋から元朝にかけて知られていた程頤の春秋学説は了解できるのである。

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