胡瑗『春秋口義』/孫覚『春秋経社要義』

(1)胡瑗『春秋口義』

『春秋口義』五巻

胡翼之(*1)の撰。宣公十二年までである。戴岷隠(*2)が湖州の学校で本書の続編を作ったが広まらなかった。(『書録解題』巻三)

(2)孫覚『春秋経社要義』

(A)『読書志』巻三(王先謙校補本)

『春秋経社』六巻

皇朝(*3)の孫覚の撰。覚の学問も啖助・趙匡によるものである(*4)。本書はおよそ四十余門。議論は頗る厳格である。

(B)『書録解題』巻三

『春秋経社要義』六巻

龍図閣学士の高郵の孫覚莘老(*5)の撰。覚は胡安定(*6)に学問を受けた。瑗の門人は千をもって数え、門人の中でも老成のものを経社(*7)に集めた。覚は最年少ながら、厳粛な態度でその中におり、人々を感服させた。本書はおそらくその時に作ったものだろう。

両書とも胡瑗の学説を収めたものである。胡瑗は北宋中頃の学者で、孫復と並び称せられる。思想史の教科書には、この二人に石介(孫復の弟子)を加えて「宋初の三先生」と記される場合がある。いずれにせよ宋代の新たな学問・思想を生んだ契機を生んだ人物として知られている。ただ胡瑗と孫復は仲が悪く、性能も反対だったので、むかしから人柄の胡瑗、学問の孫復などと呼ばれた。

胡瑗はとかく教育や人格で聞こえた人であり、その学説はあまり貴ばれない。しかし彼が程頤の先生であり、後には朱熹が褒め称えたともあって、それなりの知名度がある。随って元代くらいまでは胡瑗の学説を引く学者も少しく発見できる。胡瑗の春秋関連の著書は散佚したが、まとまったものは杜諤の『会義』に発見できる。胡瑗の佚文を直接読むには、『会義』や南宋元朝の経解類を繙くしかない。



(*1)胡翼之は胡瑗のこと。翼之は胡瑗の字。
(*2)戴岷隠は戴溪のこと。
(*3)ここでは宋朝のこと。
(*4)啖助・趙匡と同系列の学問という意味。
(*5)莘老は孫覚の字。
(*6)胡安定は胡瑗のこと。安定は胡瑗の号。
(*7)経社はクラスの名前。胡瑗は自己の教授する学校を経義斎と治事斎の二組に分け、学徳ともに優れた人を経義に、役に立つ知識を求める人を治事に入れ、各々の性格に応じた学問を授けていたとされる。ここでいう経社は経義斎のことと思われる。

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