師協『春秋解』

宋代の春秋学を語るとき、敢えて師協に触れる人間はまずいないだろうが、元朝の経解類にままその名を見るので一応説明しておこう。『読書志』巻三に次のような記述がある。

『四家春秋集解』二十五巻

これは何びとかが皇朝の師協・石季長・王棐・景先之の解釈を集めた書物で、詳細に本文を載せている。

師協の著作について知り得るのはたったこれだけである。本記事では仮に書名を『春秋解』としたが、これは『四課春秋集解』の「解」の一つに師協の春秋学説があるというので、『春秋解』と名付けるに過ぎない(『伝説彙纂』も同じ)。実際のところ師協の著書が『春秋解』であったのか、それとも全く別の書名だったのか、もはや分からないのである。

師協の学説は程公説の『分記』(3条)、張洽の『集注』(5条)、陳深の『読春秋篇』(11条)、黄震の『日抄』(5 条)、兪皐の『釈義大成』(1条)、呉澄の『纂言』(7条)、程端学の『本義』(9条)『或問』(9条)『辨疑』(3条)、汪克寛の『纂疏』(7条)、石光霽の『書法鉤元』(1条)などに散見するが(*1)、鄭玉の『経伝闕疑』に90条と最も多く収められている。師協の春秋学を考える人はまずもって第一に利用しなければならない書物である。

なお鄭玉は比較的多く師協の学説を引用し、また引用箇所に偏りもあまり見られない。しかし春秋冒頭の隠公には全く引用を見ない。これは少しく不可解なことであるが、あるいは鄭玉の見た書物に隠公篇がなかったのかも知れない。書物の冒頭が欠落していることはよくあることである。

師協の生没年は全く不明である。しかし佚文によると、『伝説彙纂』も指摘する如く、劉敞や孫覚の前後、胡安国や葉夢得までには存在したと推測される。これは学説の積み重ねを通例とする宋代の春秋学の特徴による判断だが、なにぶん年限を断定できるだけの佚文はほとんどないので、もし師協が全く同時代の学説と無関係に春秋を研究していた人物であれば、生没年の推測は極めて曖昧になる。最も安全に本書成立年(随って師協の没年ではなく)を定めるなら、師協学説の引用が見られる以前の時代、即ち程公説や張洽の前、つまり南宋前半以前ということになる。

つぎに師協の春秋学説の特徴を説明したいところだが、なにぶん佚文で断定するのも難しく、差し障りのないことだけ指摘しておきたい。

師協の春秋学は同時代の学者と同じく、経文を軸に、三伝を批判的に読み込み、新学説を提出したものと考えられる。例えば兪皐の『釈義大成』は有名な郭公(*2)を解釈して次のように指摘する。

胡氏伝は師氏の学説を用い、郭亡と梁亡は書法も均しく主旨も相通ずると指摘している。

郭亡は荘公24年経に見える郭公のことで、梁亡は僖公19年の経文を指す。宋代には郭公を郭亡の誤りと考える学説が誕生し、一部の学者の間ではそれが当然視されていた。ただこの郭亡説を最初に提唱したのは、一般的には劉敞だとされている。私自身は少しくこの劉敞提唱説に疑問を持っているが、確かに明確に郭公を郭亡と絡めて有意義な論述を展開したのは劉敞であった。以後、この劉敞の学説に類似した学説が盛行し、胡安国もその学説を採用したとされている。つまり胡安国の郭亡説は、劉敞のそれを受けて展開したものだと考えられているのである(汪克寛『胡伝附録纂疏』荘公24年郭公条)。

しかし兪皐によると、胡安国は師協(師氏)を受けたものだという。兪皐は元朝の朱子学系統の学者で、それなりに学力を有した人物だから、全く根拠のない発言とは思われない。郭亡説の提唱が仮に劉敞かそれ以前にあったとしても、胡安国が直接依拠したのは師協だったとも考えられる。胡安国の春秋学には、息子が記した『通旨』や『問答』が付属しており、そこに解釈の根拠や疑問点を列挙していたという。これらは既に散佚したが、元朝にはまだ現存しており(汪克寛『纂疏』引用姓氏に見える)、あるいはそこに師協学説への言及があったのかも知れない。しかしそれならば逆に『通旨』『問答』の存在した元朝で、しかも『胡氏伝』の解釈を施した汪克寛がこれに言及せず、かえって胡安国の郭亡説を劉敞に繋げるのは不可解である。

随って、胡安国の郭公説に対するものとしては、単純に兪皐の誤解である可能性も充分ある得る。しかし兪皋が郭公説を師協に結びつけた以上、師協の学説にも何らかの類似学説が提起されていたと考える必要がある。そこでもし兪皐の発言になんらかの信憑性があるとすれば、師協の著書の成立年限は更に遡り、胡安国以前、随って劉敞より少し後、孫覚か蘇轍前後と見なし得る。また師協が郭亡説を唱えていたというなら、師協の春秋学説は当時最先端の流行を襲ったものだったと見なせるだろう。

いずれにせよ佚文からの判断であり、しかも佚文にそれほど体系性がないため、師協の春秋学はある程度の新しさを有した学説だったという程度に理解に止めておくのが妥当であろう。



(*1)条数は引用部分と言及部分の両方を含んでいる。
(*2)春秋経文の難読箇所で、夏五郭公などと呼ばれる。夏五も郭公も普通は経の闕文として処理されるが、そこに孔子の筆削を考える学説も存在する。

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