第一論文:春秋学の目的

目的

『春秋』はどのような書物か。曰く、『春秋』は天理を扶持し、人欲を止める書物である〔補1〕。しかし『春秋』は魯史に過ぎず、聖人もそれに手を加えたに過ぎない〔補2〕。それにも関わらず、天理を扶持し人欲を止めるとは何の謂いか〔補3〕。曰く、かの偉大なる上帝は、民草に衷を授けられた。その常性に従って民を安寧に導くことが、君主の勤めである(*1)。堯帝、舜帝、禹王、湯王、文王、武王は、君主として民草の上に立ち、人として踏み行うべき基準を設け、世の秩序を維持し、さらには〔宇宙の本体たる〕太極を常に運行させ、天地生々の理を滞らせなかったが、これは天理を明らかにし、人の心を正したから、できたのである〔補4〕

しかし周の東遷以来、古代聖王の政治は顧みられず、政教は失われ、風俗は頽廃した。秩序は守られず、上帝の授けられた天理も、その天理に従うことも、曖昧模糊として無きがごとき有様となった。そのため君臣の道といい、上下の分といい、夷夏の別といい、長幼の序といい、義利の別といい、真偽といい、すべて混乱してしまった。諸侯は天子のごとく振る舞い、大夫は諸侯のごとく振る舞いながら、だれもその間違いに気がつかなかった。臣下が君主を弑し(*2)、子供が父親を弑し、強国が弱国を併呑し、身分の低いものが高い身分を奪いながら、だれもその乱れに気がつかなかった。これらの振る舞いは全て聖代の政治に反したものであり、人として間違ったものでありながら、だれもその不正に気がつかなかったのである。

孔子は聖人であったが、天子の位にいなかった〔補5〕。ならばこの世を正しく治める責任は、誰が負うというのか。孔子はこれを諦めるに忍びなかった。このため天理を明らかにし、人の心を正す責任を、己の身に課したのである。聖人の作った六経は、どれも世に教えを垂れたものである。しかし『春秋』には取り分け深い意味が込められた。だから「私は空論によって示すのではなく、事柄のように切実で明白なものによって示そうと思う」(*3)と言ったのである。

魯史の記事は、聖人も『春秋』に書いた。その事は全く魯史と同じである〔補6〕。しかしそこに込められた意味は異なっている。魯史の記述には、君臣のあり方〔が不分明のところがある。しかし我が聖人は、君臣の義が正しくなるよう書き直した。〕〔校1〕魯史の記述には、上下の分が混乱しているところがある。しかし我が聖人は、上下の分が正しくなるよう書き直した。夷夏の区別が明らかでなければ、我が聖人はこれを明らかにした。長幼の序が正しくなければ、我が聖人はこれを正した。義理の区分が不分明であれば、我が聖人はこれを区分した。真偽に混乱があれば、我が聖人はこれを明らかにした。これを要するに、天理をその芽生えに於いて扶持し、人欲をその出現に於いて止めたのである。これこそ人の心を正す方法であった。だから「禹王が洪水を治めたので、天下は平安になった。周公が夷狄を排斥し、猛獣を駆逐したので、人々は心休まった。孔子が『春秋』を作ったので、乱臣賊子は懼れをなした」(*4)と言われるのである。

しかし孔子の『春秋』は、ただの文字上のことに過ぎない。それが洪水を治め、戎狄を駆逐した功績に擬せられるのは、人の心を正した功績が、龍蛇を放ち虎豹を駆逐した功績よりも、取り分け大きかったからである。だから「『春秋』は天子の事だ」と言われるのである〔補7〕。なぜならば、人の性が心に現れるとき、惻隠に始まり是非に終わるが、惻隠の情は人の心に根ざし、是非の情は天下に通じるからである〔補8〕

天子の事

世の秩序が守られておれば、天理はもとより明らかであり、人の心もまた正しい。そのため天下の人々は、天下の是非を尺度にして、身の振り方を考える。しかし世の秩序が暗がると、天理は衰え、人の心も濁ってしまう。そのため天下の人々は、我が身の利害を天下の是非だと考えるようになる。

世のいわゆる乱臣賊子は、好き勝手に人欲のまま振る舞い、天理を失ったものどもであるが、是非の心が全くないとは言えない。だから好き勝手に振る舞い、制御すべきものがないときでも、その実、心の中では自分の振る舞いが道理に反していることを知っており、人が自分を非難することを憎みもするのである。しかしそのわずかに残った天理も、日々侵蝕を続ける人欲に打ち克つことはできない。そのため心を惑わせ、正しき状態に戻ることができず、どんな悪事にも手を出すようになる。道理に反することだと知りながら、平然としておれるようになる。こうなれば天下の是非を乱してでも、自分に対する非難を逃れようとする。ましてや幸いにも、正しき法によって罪を正すことのできる、道理に明るい君主はいない。そればかりか、さらに幸いなことに、世の秩序は狂い、人の心は曲がり、人々は自分の見慣れた世の有様を正しいと思い込んでいるのである。道理に悖った振る舞いを非難するものはいないのである。ならば乱臣賊子にとって、幸運な上にまたなんと幸運なことであろう。

だから唐虞三代(*5)までの世の中は、天理はもとより明らかであり、人の心もまた正しく、是非善悪の基準も定まっていた。そのため不善を働く人は、刑罰や拷問を加えるまでもなく、おのずとこの天地の間に身の置きどころがなくなった。ところが世の秩序が崩れると、天理は狂い、是非善悪の秩序も顛倒してしまった。かくして乱臣賊子は、ようやくその身の置きどころを手に入れたのである。ただ礼楽征伐が王から発せられなくなっただけのことではないのである〔補9〕

孔子が『春秋』を作ったのは、つまるところ、是非の道理を明らかにし、この天下と将来に教えを示すためである。是非は人の心にやどる共通の道理である。もし聖人がこれを明らかにすれば、おのずと人々の心にしっくりくるものがあるだろう。ならばあの乱臣賊子であっても、これを知れば、上っ面では平気ぶっても、心では懼れるだろうし、人前では平気ぶっても、人知れぬところでは懼れるだろう。刀や斧を前にしては懼れずとも、一人たたずむときには懼れるだろう。人欲が日々侵蝕を続けるときには懼れずとも、天理がわずかでも兆したときには懼れるだろう。これこそ天理を扶持し、人欲を止めた功績である。なんと偉大なことではないか。孟子が決然と治世の功ありとみなしたのは、ここに鑑みてのことであろう。

古代の聖王たちが作った綱紀や法度が全く失われ、天子の礼楽征伐の権が全く制御できなくなったとき、わずかに頼みとし得るのは、人の心に宿る是非の公理(*6)だけである。しかしそれまで顛倒錯乱し、全てが曖昧になってしまったとき、天地と人は何を頼りに正しく生きればよいのだろうか。人としての正しいあり方は、何を頼りに守ればよいのだろうか。これ〔を明らかにしたこと〕こそ、『春秋』なる書物が万世にわたり称えられる理由である。ところが世の学者は孟子の真意が分からず、『春秋』は聖人が善を賞め悪を罰するために作った書物だと考えるようになってしまった〔補10〕。孟子の言う「天子の事」は、ただの賞罰の権になってしまったのである。そもそも「天子の事」がただの賞罰の権に過ぎず、道理に従って民を安寧に導く責任を問わないのであれば(*7)、それは劉氏など漢朝以後の君主(*8)のことに過ぎない。唐虞三代の天子のことではないのである。この種の発言をするものは、ただ『春秋』について理解が足らないばかりか、「天子の事」についても分かっていないのである。

賞罰説の誤謬

彼らは『春秋』の次のような特徴、即ち〔経文に〕名が書かるときもあれば字(あざな)が書かれることもあり、人と書かれる場合もあれば爵が書かれる場合もあり、あるときには氏を書かず、別のときには氏を書くというようなものを見て、こう言うのである。――「字や爵や氏を書くのは、聖人が褒めたからだ。名を書いたり、人と書いたり、氏を書かないのは、聖人が貶したからだ。褒めたから〔字や爵や氏を〕予(ゆる)し、貶したからそれらを奪ったのだ。予すとは、天子に代わって賞めたことを意味する。奪うとは、天子に代わって罰したことを意味する。天王が賞罰の権を執れなくなったので、聖人が代わりに賞罰の権を執ったのだ。いわゆる『徳あるものを彰らかにし、罪あるものを討つ』というもので、聖人みずからこの責に当たったのだ」と〔補11〕

そもそも『春秋』は魯史である。夫子は匹夫(*9)である。〔諸侯の一つに過ぎない〕魯が天子の権を拝借し、〔孔子は〕匹夫でありながら天王の柄を操るという。これではたとえ道理のあることだと言ったみたところで、しかるべき位にいないと言わねばなるまい。夫子はもともと天下の諸侯が天子のごとく振る舞い、大夫が諸侯のごとく振る舞い、下位の者が上位の者のごとく振る舞い、卑しき者が尊き者のごとく振る舞うことを厭うて、『春秋』を作り、名分を正したのである。それなのにみずから同じ僭越な振る舞いをしておいて、どうやって天下を律するというのか。聖人は決してこのようことをすまい。そもそも是非は人の心に宿る共通の道理であり、位のあるなしに関わらず、だれでも発言できる。だから夫子は魯史を用いて、是非を明らかにしたのである。しかし賞罰は天王の権に属し、王の位になければ操ることはできない。だから夫子は魯史の中に賞罰の意を込めざるを得なかったのである(*10)。是非は道理に適っておればそれでよいが、賞罰は王の位が必要である。夫子に道はあったが、王の位はなかったのである〔補12〕

またこのように言う人もいる。――「夫子が『春秋』を作ったのは、夫子一己のためではない。夫子は魯には理想的な存在になり得る資質があると考えた。そこで魯に〔褒貶賞罰の権を〕託し、天下の君主と大夫を律したのである。つまり賞すとは、一己の夫子が賞すという意味ではなく、魯が賞すという意味である。罰すとは、一己の夫子が罰すという意味ではなく、魯が罰すという意味である。魯は周公の後胤、聖人の末裔である(*11)。そこで天子〔校2〕自身は賞罰の権を操れぬというので、魯に委ねた。しかし魯でもそれを私できぬといって、周のやり方に従った。周の典礼は周公が作ったものである。周公の後胤が周公の典礼を執り、天下の君主と大夫を律する。――こういえば『春秋』の真意に近いのではないか。これこそ聖人の心である」と。

そもそも夫子は匹夫である。当然ながら天王の賞罰の権を勝手に操ることはできない。魯は諸侯の国である。どうして天王の賞罰の権を勝手に操ることができようか。魯は天王の賞罰の権を勝手に操れないのに、夫子はそれを魯に委ねたという。これでは夫子が実権を握りながら、その名だけは魯が引き受けることになる。夫子自身はあえて僭越な振る舞いをせず、かえって魯に僭越な振る舞うをさせるという。聖人は断じてそのようなことをするまい。学者の通弊として、聖人をありがたがる余り、道理の根本をわきまえず、このような発言をしてしまうのである。夫子を尊敬してのことであろうが、実際にはかえって貶めているのである。

また「『春秋』は三代の制度(*12)を兼ね備えたものだ」という人がいる。これは聖人が顔淵に告げた国の治め方――夏時・商輅・周冕・韶楽〔補13〕――が実現せぬので、己の理想を『春秋』に託した、と言うのであろう。しかしこれらはすべて間違った考えである。この種の考え方は、天子の礼楽賞罰の権を、聖人が勝手に操ったとみなすところにある。そもそも四代の礼楽について孔子が顔淵に語ったのは、もし己の志がかない、天下に道が行われたなら、このようにすべきであろう、というだけのことである。なぜ王の位にもないのに、当時の史書を改修し、勝手に四代の礼楽制度に改めるだろうか。夫子は魯の人である。だから魯史を下敷きにしたのである。当時は周だった。だから当時の王の制度(*13)を用いたのである。これこそ聖人の大いなる御業である。「夫子は『春秋』を作り、礼楽賞罰の権を私し、当時の王の制度を改変し、三代の制度を兼ねた」などの発言は、聖人を無実の罪に陥れたものと言わざるを得ない。これは学問を志す人々が正しき道を学ばず、過ちを因襲してきたからである。正しき教えに害をなすこと甚だしいと言わねばならない。

小結

春秋を修める後学の徒は、まずもって夫子は礼楽賞罰の権を私しなかったこと知らねばならない。これが理解できて、やっと学者の諸説を破ることができる。そして学者の諸説を破ることができてこそ、夫子が『春秋』を作った理由と孟子の言う「天子の事」の意味が了解できるのである。



校勘

〔校1〕〔 〕内は傅跋に拠って増補した。
〔校2〕『本義』所引は「夫子」に作る。

訳者注

(*1)『尚書』湯誥の言葉を参用したもの。解釈はおおむね蔡沈の『書集伝』に拠った。「衷」は「中」に同じ。呂大圭の属する朱子学では、この「中」を天理と解釈する。次に見える「常性」も同じく天理の意。詳細は〔補4〕を参照。
(*2)君主を殺すこと、および子が父を殺すことを、「弑(しい)」と言う。意味は「殺す」に同じ。人間の犯してはならぬ大罪の一つ。
(*3)『史記』太史公自序に見える孔子の言葉。原文は「我欲載之空言、不如見之於行事之深切著明也」で、孔子の春秋制作の由来を説いたものとされる。
(*4)『孟子』滕文公下篇の言葉。以下の「『春秋』は天子の事」も同じ。
(*5)唐虞三代‐唐は陶唐氏(堯)、虞は有虞氏(舜)、三代は夏・商・周の三王朝を指す。聖王が天下を治めた理想の時代を意味する。
(*6)是非の公理‐是非という天下に共通の天理という意味であろうか。
(*7)道理に従って‐本論冒頭の『尚書』湯誥の言葉。(*1)および〔補4〕を参照。
(*8)漢王朝を興した劉氏以下、歴代王朝の皇帝たちの意。
(*9)匹夫‐平民を意味する言葉だが、孔子は魯の下級貴族である。低い身分の男という意味で用いたのであろう。
(*10)『本義』は「だから夫子は魯史の中に賞罰の意を込めることができなかったのである」とする。意味としては『本義』の方が明瞭だが、前後の文脈や学史上の位置を鑑みれば、恐らく底本が正しいだろう。
(*11)魯の初代君主は周公の息子の伯禽である。周公は聖人とされているので、魯の君主は聖人の末裔ということになる。
(*12)三代‐下文に鑑みるに、蓋し四代の誤。四代は虞(舜)・夏・商・周を指す。上の唐虞三代とほぼ同じ意味。
(*13)当時の王の制度‐「時王の制」などと称される。具体的には周王朝の制度を指す。

補注1〕→別頁


作成日:2009/08/02
最終更新日:2009/08/02

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