第二論文:日月の例と称謂の例

問題の所在

六経の真意が伝わらないのは、学者が無理な学説を立てるからである。そして春秋学は特にそれが甚だしい。その無理な学説は三伝から生まれたものだが、後世の学者はさらに無理をかさね、いかにも尤もらしく論じたてている。しかしその実、一つの事柄に対して、あるときは「これは聖人が褒めたのだ」と言いながら、別のところでは「これは聖人が貶したのだ」と言うなど、相互に矛盾するものがある。また同じ事柄に対して、前の経文には聖人が褒めたのだと言いながら、後ろの経文では聖人が貶したのだと言うなど、前後に矛盾するものがある。このような紛々たる議論のために、聖人の真意はますます分からなくなっている。しかし問題の本質は次の二点につきる。一つ目は日月によって褒貶を示したとする学説、二つ目は名称爵号によって褒貶を示したとする学説、これである〔補1〕

彼らはこう言う。――同じ「盟」(*1)に対して、日を書く場合と書かない場合がある。「葬」〔校1〕は日を書くはずなのに、時(*2)を書く場合がある。「入」(*3)は日を書くはずなのに、月を書く場合がある等々。このような異なる書き方を見て、日月によって褒貶を示したとする学説が生まれるのである。またこう考える人もいる。――同じ国君に対して、「子」(*4)と書く場合もあれば、「侯」と書く場合もあり、「伯」と書く場合すらある。同じ夷狄(*5)に対しても、州名によって書く場合もあれば、国名を書く場合もあり、「人」と書く場合すらある(*6)。また同じ人間に対しても、前の経文では氏を書くのに、後ろの経文では名を書くなどの違いがある。これら経文の異なる書き方を見て、名称爵号によって褒貶を示したとする学説が生まれるのである。私はこの二つの学説を論駁したいと思う。

日月の例

蔑の盟(隠1)には日が書かれていない(*7)〔補2〕。この理由を求めて、〔穀梁伝は〕「盟約が守られなかったからだ」という。ところが柯の盟(荘13)に日が書かれていない(*8)ことに対して、〔同じ穀梁伝は〕「盟約が守られたからだ」という。果たして「守られなかった」から日が書かれなかったのだろうか、それとも「守った」から日が書かれたのであろうか。また〔公羊伝と穀梁伝はともに〕「桓公の盟には日が書かない」と言いう(*9)。しかし〔桓公の盟の一つである〕葵丘の盟(僖9)には日が書かれている(*10)。これに対して、片方は「危ぶんだのだ」と言うが、もう片方は「褒め称えたのだ」と言っている(*11)。果たして「危ぶんだ」〔から日が書かれた〕のだろうか、それとも「褒め称えた」からなのだろうか。

公子益師の卒(隠1)には日が書かれていない。これに対して左氏伝は「公(*12)が〔公子益師の〕小斂に参加しなかったからである」という。しかし公孫敖が国外で卒したとき、公は国内にいた(*13)。また叔孫婼が国内で卒したとき、公は国外にいた(*14)。ならば両者ともに公が小斂に参加できなかったのは明白である。それなのになぜ日が書かれているのだろうか。公羊伝は「公子益師〔の卒〕に日が書かれていないのは、遠い時代のことだからだ」という。しかし公子彄も遠い時代の人間である。それなのになぜ〔公子彄の卒には〕日が書かれているのだろうか(*15)。穀梁伝は「〔公子益師の卒に〕日を書かないのは、〔公子益師が〕悪人だからである」(*16)という。しかし公子牙(*17)や季孫意如(*18)も悪人である。それなのになぜこの二人に対しては日が書かれているのだろうか。

「葬」には月と日が書かれるはずなのに、月と日が書かれていない場合がある。これに対して、「期日に先立つ葬儀に対して、日が書かれているのは(*19)、〔嗣子が〕葬儀を望んでいたことを示したのである。期日に先立つ葬儀に対して、日が書かれていないのは、礼制に沿った葬儀を実施しなかったことを示したのである。期日に後れた葬儀に対して、経文に日が書かれているのは、〔葬儀の遅れを〕痛ましく思ってのことである。期日に後れた葬儀に対して、日が書かれていないのは、期日通りに葬儀を実施できなかったことを示したのである。期日通りの葬儀であり、経文に日が書かれていないのは、〔礼制に沿った〕正しい葬儀だったからである。期日通りの葬儀であったのに、経文に日が書かれているのは、葬儀が実施できないことを危ぶんでのことである」という(*20)。しかし「期日に後れた葬儀に対して、経文に日が書かれている」というのは、具体的には斉の桓公を指してのことである(*21)。当時、〔斉の国では〕公子たちが国君の地位を争っていた。だから葬儀ができないことを危ぶみ、これを痛んだとは言えるだろう。しかし衛の穆公や宋の文公は斉の桓公ほどの賢君ではなく、国内紛争の憂いもなかった。それなのに期日に後れた葬儀に対して、経文には日が書かれている(*22)。なにを痛むことがあるのだろうか。宋の穆公の葬に日を書くのは(*23)、なにを危ぶむことがあるのだろうか。およそこれらは経文解釈に困難を生じさせるものばかりである。それにも関わらず、春秋は日月によって褒貶を示したなどと言えるだろうか。

称謂の例

〔天王が宰咺を派遣して〕仲子の葬儀に賵(*24)を贈ったことに対して(*25)、「宰」に〔咺という〕名が書かれているのは、貶したからであるという(*26)。一方、〔王が〕栄叔を派遣して成風の葬儀に含(*27)と賵を贈ったことに対して、「王」に「天」の字が書かれていないのは、貶したからであるという(*28)。仲子の賵を贈った罪は、宰にあって天王にはないというのだろうか。成風の含と賵を贈った罪は、天王にあって栄叔にはないというのだろうか。そもそも春秋に「王」が書かれているのは、周王治下の秩序を正すためである。それにも関わらず、夫子じしんが周王を貶し、その「天」の字を削るという。これでいて秩序を正すことができるというのだろうか。

穀伯と鄧侯には名が書かれている(*29)。これに対して、「弑逆の人に朝したから貶したのだ」という学者がいる(*30)。しかし滕子や杞侯も弑逆の人に朝したのではないのか(*31)。また滕侯と薛侯の来朝に際し、経文に「侯」と書くことに対して(*32)、「滕と薛は微弱な国であるが、先んじて隠公に朝したので、これを褒め〔て侯爵と書い〕たのである」という学者もいる(*33)。しかし隠公に朝すことのどこに褒める理由であるのだろうか。もし隠公を始めて天命を受けた君主と見なすというなら、それは甚だしき誤謬と言わなければならない。

また「滕はもともと侯爵だった。弑逆の人に朝したので、貶して子爵に降したのである」という学者がいる(*34)。なるほど魯の桓公に朝したのことは貶すべきことである。しかし〔滕侯は〕春秋の最後まで、もはや侯爵と書かれなくなるのである。はたしてこれで「桓公に朝したから貶された」と言えるだろうか。また「当時の周王が〔滕侯の〕爵位を降したのだ」という学者もいる(*35)。しかし、もし当時の周王に諸侯の爵位を上下する力があるなら、まだ天王じしんが礼楽賞罰の権を握っていたことになる。それでいて春秋と言えるだろうか。

〔楚の記述法を見ると、経文は〕まず「荊」と書き、次に「楚」と書き、ほどなくして「楚子」と書いている。これに対して、「夷狄を昇進させたのだ」という学者がいる(*36)。中国の諸侯でありながら夷狄の振る舞いをしたものに対して、これを夷狄とみなすことは、あり得ることである。しかし夷狄でありながら中国のように振る舞ったからといって、これを中国とみなしてよいだろうか。聖人が春秋を作ったのは、もともと夷狄と中華をきっちり区分するためである。それにも関わらず、夷狄を進め、中国を退けるようなことがあるだろうか。

これらの矛盾は一つや二つではない。しかし、これを要するに、どれもこれも経文の解釈に困難を生じさせるものばかりである。それにも関わらず、春秋は名称爵号によって褒貶を示したなどと言えるだろうか。

日月称謂の意味

一般に春秋は事を日につなげ、日を月につなげ、月を時につなげている。一日で終わる事は日につなげ、一ヶ月で終わる事は月につなげ、一時で終わる事は時につなげている。だから朝・覲・蒐・狩・城・築・作・毀(*37)などは〔経文に時が書かれているが、それは〕すべて一時で終わるものだからである(*38)。会・遇・平・如・来・至・侵・伐・圍・取・救・次・遷・戌〔校2〕・襲・奔・叛・執・放・水・旱・雨・雹・氷(*39)・雪・彗孛(*40)・螽・螟などは〔経文に時や月が書かれているが、それは〕一ヶ月で終わるものもあれば、一時〔校3〕で終わるものもあるからである。崩・薨・卒・弑・葬、郊廟の祭り、盟・戦〔校4〕・敗・入・滅・獲・日食・星変・山崩・地震・火〔校5〕・災などは〔経文に日が書かれているが、それは〕一日で終わるものだからである。

なるほど経文には月を書くべきところに月が書かれず、日を書くべきところに日が書かれていない場合がある。これらはいずれも魯史に記録がなかったからである。たとえば某事に対して月を書くべきなのに、魯史に時だけが書かれていた場合、また某事に対して日を書くべきなのに、魯史に月だけが書かれていた場合、聖人は勝手に日を書き加えるだろうか。これこそ春秋が日月を例としない証拠である(*41)。

春秋は事を直書するだけで、その善悪はおのずと明らかになっている。名称爵号はその名称爵号に従うだけで、その是非善悪は経文に現れている。名を書くものすべてが貶されているわけでも、字を書かくものすべてが褒められたわけでもない。もし某と某とに褒めるべきことがあるのに、魯史に名前しか残っていなかった場合、あるいは某と某とに貶すべきところがあるのに、魯史に字しか残っていなかった場合、聖人は列国を走り回り、彼らの名と字を探し出してから、経文に書いたというのだろうか。これこそ春秋が名称爵号によって褒貶を示さない証拠である。

事実の把握

しかし経文に書かれた月日の前後で、その是非を知ることや、名称爵号の異同によって、その事実を知ることは、あり得ることである。しかし聖人はそれらによって褒貶を発したわけではない。

例えば、荘公三十一年の「春、台を郎に築く」、「夏、台を薛に築く」、「秋、台を秦に築く」、三十二年の「春、小穀に城く」を見れば、わずか三時の間に大規模な土木工事を何度も起こしたことが分かる。また宣十五年の「秋、螽あり」、「冬、蝝 生ず」を見れば、二時にわたって災害が起こったことが分かる。また荘公八年の「春、師 郎に次す」、「夏、師 斉師と郕を圍む」、「秋、師 還る」を見れば、三時にわたって国外に派兵していたことが分かる。これらは時が書かれているために分かることである。

また桓公二年の「秋、七月、杞侯 来朝す」、「九月、杞に入る」を見れば、〔杞侯が〕来朝して一ヶ月ばかりで、杞に派兵したことが分かる。昭公七年の「三月、公 楚に如く」、「九月、公 楚より至る」を見れば、夷狄の国に朝したとき、七ヶ月もの久しきにわたり労苦を強いられたことが分かる。僖公二年の「冬十月、雨ふらず」、三年の「春、王正月、雨ふらず」、「夏、四月、雨ふらず」、「六月、雨ふる」を見れば、九ヶ月にしてようやく雨が降ったことが分かる。これらは月が書かれてあるために分かることである。

〔隠公九年の三月〕「癸酉、大雨あり、震電す」、「庚辰、大いに雪ふる」を見れば、八日の間に二度も天変のあったことが分かる。〔隠公十年の六月〕「辛未、郜を取る。辛巳、防を取る」を見れば、わずか十日あまりで二つの邑を取ったことが分かる。〔桓公十四年の秋八月〕「壬申、御廩に災あり」、「乙亥、嘗す」を見れば、災のさめやらぬ間に嘗の祭りを行った不敬を知ることができる。〔宣公八年の冬十月〕「己丑、敬嬴を葬る」、「庚寅にして克く葬る」を見れば、翌日(*42)にしてようやく葬っており、ここから葬儀の備えのなかったことが分かる。〔成公三年の冬十一月〕「丙午、荀庚と盟し」、「丁未、孫良夫と盟す」を見れば、魯の人が晉を先にし、衛を後回しにしたことが分かる。〔襄公三年の六月〕「己未、雞澤に同盟し」、「戊寅、陳の袁僑と盟す」を見れば、晉の人は諸侯と盟を行った後で、大夫と盟を行ったことが分かる。これらは日が書かれてあるために分かることである。しかしここから聖人は日月の有無に褒貶を寓したと考えるのは誤りである。

かの名称爵号の異同については、事の大小によって、詳しく書いたり簡略に書く場合がある。また前の事に対しては「目」を記し、同じ事が後文に出たときは「凡」を記す場合もある(*43)〔校6〕。また上の文章を受けて辞を減らすこともある。もとより一例によって括るのは難しいが、これらによって時勢の変化や世道の盛衰を調べることはできる。

例えば、一つの楚に対して、始めは荊と書き、次に楚と書き、ほどなく楚子と書いている。一つの呉に対して、始めは呉と書き、次に人と書き、ほどなく呉子と書いている(*44)。これによって夷狄の強くなりゆく様子が分かる。魯の柔と溺〔校7〕、鄭の宛と詹に対して(*45)、始めは氏を書いた大夫などいなかった。しかし後には氏を書かない大夫がいなくなる(*46)。鄭の段、陳の佗、衞の州吁など〔の悪逆な臣下〕に対して、始めは名を書いていた。しかし後には弑君の賊であっても、氏を書くようになった(*47)。これによって大夫の強くなりゆく様子が分かる。始めは曹と莒に大夫はいなかった。しかし後には曹と莒ともに大夫が登場するようになる。これによって小国の大夫が政権を握る様子が分かる。始めは、呉と楚は君も大夫もみな「人」と書いていた。しかし後には呉と楚の臣下にまで名が書かれるようになる(*48)。ここから夷狄の大夫が中国と関係を持つようになった様子が分かる。

先君の喪にある諸侯は「子」と書く。そして「子」と書かれながら、会や伐に参加するものがいる(*49)。これによって、喪中の身でありながら会や伐に参加した非礼が分かる。杞は公爵である。それにも関わらず杞伯と書いている。滕は侯爵である。それにも関わらず滕子と書いている。これによって当時の諸侯が周の爵を用いず、国の大小によって強弱を決めていたことが分かる(*50)。曹の会では蔡を衛の前に書き、鄭の伐では衛を蔡の前に書いている。これによって、当時の諸侯は目前の利害のために、周の班列を用いなかったことが分かる〔補3〕。幽の盟では男爵が伯爵の前に置かれ(*51)、淮の会では男爵が侯爵の前に置かれ(*52)、戚の会では子爵が伯爵の前に置かれ(*53)、蕭魚の会では世子が小国の君主の前に置かれている(*54)。これらによって、伯者の政治は私意でもって諸侯の軽重を決め、周の礼制を無視していたことが分かる。垂隴の盟では、国内に於いて、魯の公孫敖が諸侯と会している(*55)。諸侯が召陵に会して楚討伐の軍を起こしたときには、国外に於いて、斉の国夏が伯主と会している(*56)。これらによって、大夫が諸侯のごとく振る舞いながら、しかもその過ちに気づかなかったことが分かる。

およそこれらはどれも名称はその名称に従い、爵号はその爵号に従ったものである。これらによってその是非善悪は明らかである。しかし聖人が名称爵号によって褒貶を発したと考えてはならない。聖人の褒貶を名称爵号の間に求める学者は、必ず解きがたい矛盾に陥る。そして矛盾に陥ると、強いて意見を通すべく、新説や妙論を忌憚なく生み出すことになる。それらは聖人の明白正大な心からかけ離れたものである。

小結

春秋を修める後学の徒は、まず日月を例とする学説と名称爵号に褒貶を見る学説の二つを論破しなければならない。これが論破できて、ようやく春秋の主旨を論ずることができるのである。



校勘

〔校1〕底本は「奔」に作る。傅跋に拠り改める。
〔校2〕底本は成とする。傅跋に拠り改める。
〔校3〕底本は「日」に作る。本義に拠り「時」に改める。ただしこの部分は経文と齟齬が多く、あるいは「日」が正しいとも考えられる。
〔校4〕底本は「狩」に作る。本義は「戦」に作る。狩は上文に見え、かつ前後の盟敗との関係から、「戦」に改める。
〔校5〕底本は「水」に作る。稗編および本義は「火」に作る。水は上文に見え、かつ経文の例から推し、「火」に改める。
〔校6〕底本は「有前日而後月」に作る。傅跋に拠り「有前目而後凡」に改める。
〔校7〕底本は「翬柔」に作る。本義に拠り「柔溺」に改める。

訳者注

(*1)盟・葬・入など鉤括弧内の言葉はいずれも春秋経文の言葉を指す。春秋学は経文の文字(意味・種類・数など)が議論の対象となるため、おおよその意味を察知できる漢字に対しては訳語を充てず、難読の部分のみ注釈に意味を添えた。
(*2)「時」は、春夏秋冬の四季のこと。一時と言えば、春夏秋冬のどれか一つを指す。二時と言えば、連続する二つの季節を指す。四時と言えば、四季の全てを指す。
(*3)君主が国外から国内に入ること。春秋経は、君主の入出国に対し、「帰」「復帰」「入」「復入」の特殊用語が用いる場合がある。経文に「入」が書かれるときは日を書く、という決まりがあるとする学説がある。
(*4)「子」は踰年改元前の君主に対して用いられる名称。一般に君主が死ぬと、後継者はすぐに改元せず、翌年をまって改元する。春秋経には、この改元前の後継者を「子」と書く規則があるとされる。
(*5)具体的には楚と呉と於越(越)を指す。
(*6)楚について論及したもの。楚の国ははじめ「荊(荊州)」なる文字で経文に現れ、ついで「楚(国名)」になり、最後に爵位(楚子。楚の子爵)が現れる。
(*7)隠公元年の左氏経文に「三月、公及邾儀父盟于蔑」とある。「蔑」は地名。公羊伝と穀梁伝の経文は「蔑」を「眛」に作る。「日が書かれていない」とは、「三月、○○、公及邾儀父盟于蔑」の○○の箇所に干支(甲子、乙丑など)が記されていないことを指す。
(*8)左氏経文に「冬、公會齊侯盟于柯」とある。
(*9)斉の桓公の主導下で行われた盟は経文に日を書かない、という意味。
(*10)左氏経文に「九月、戊辰、諸侯盟于葵丘」とある。
(*11)「危ぶんだ」のが公羊伝の解釈で、「褒め称えた」のが穀梁伝の解釈。
(*12)公は魯公のこと。魯の国の君主。ここでは魯の隠公を指す。
(*13)文公14年の左氏経文に「九月、甲申、公孫敖卒于齊(九月、甲申、公孫敖 齊に卒す)」とあり、「九月」の下に日(甲申)が書かれている。
(*14)昭公25年の左氏経文に「冬、十月、戊辰、叔孫婼卒」とあり、「冬十月」の下に日が書かれている。昭公は同年九月に季孫氏との抗争に敗れ国外逃亡を謀った。また左氏伝によると十月戊申に叔孫婼は魯の正殿で死んだとある。したがって国外にいる昭公が叔孫婼の小斂(葬儀の一)に参加できたはずはなく、左氏伝の解釈を推せば、「冬、十月、叔孫婼卒」と書かれるべきだということになる。
(*15)「遠い時代」とは、春秋の執筆された孔子の時代から遠く離れた過去の時代を意味する。隠公元年に死んだ公子益師は遠い時代に属す。しかし隠公5年という同じく遠い時代に死んだはずの公子彄に対しても、公羊経文には「冬、十有二月、辛巳、公子彄卒」とある。呂大圭はこの矛盾を指摘したのである。
(*16)公子益師の悪行については経伝に明文がない。穀梁疏は「益師の悪行は経伝に明文がない。春秋より前にあったのだろう」とし、さらに「益師は忍び寄る邪謀を阻止し得ず、桓公に隠公を弑逆させた云々」(麋信の説)を引いて、「この学説には根拠がない」と退けている。
(*17)荘公32年の経文に「秋、七月、癸巳、公子牙卒」とある。公子牙は荘公の後継者をめぐって姦計を張りめぐらせたと言われている。
(*18)定公5年の左氏経文に「六月、丙申、季孫意如卒」とある。季孫意如は魯の君主(定公の先代)の昭公を追放した人物で、善悪を論ずれば、国君に刃向かった悪人の側に入る。
(*19)礼において、諸侯が死んだ場合、その後継者は、先君死亡から五ヶ月後に葬ることになっている。以下はこの規定を前提とした発言。
(*20)以上の規定は隠公3年の公羊伝に見える。
(*21)何休の解釈をふまえたもの。「賢君(桓公)が礼制に定められた日時に葬られなかったことを痛んでのことである。〔経文の〕『丁亥、斉の桓公を葬る』は、これである」とある。
(*22)成公3年の公羊経文に「辛亥、葬衞繆公」とあり、同年の公羊経文に「乙亥、葬宋文公」とあり、両君とも葬に日が書かれている。
(*23)隠公3年の公羊経文に「癸未、葬宋繆公」とある。なお左氏経文は「繆」を「穆」とする。
(*24)車馬。葬儀を助けるために贈られる物品の一つ。以下は胡安国『春秋伝』の学説を反駁したもの。
(*25)隠公元年の左氏経文「天王使宰咺來歸惠公仲子之賵」を指す。胡安国の解釈に従うならば、天王は周王(天子)、恵公は隠公の先代。仲子は恵公の妾。宰咺の「宰」は官名で、冢宰(六卿の長)。「咺」はその名。ただし仲子と宰咺については諸説ある。
(*26)胡安国は「王朝の公卿は官を書き、大夫は字を書き、上士と中士は名を書き、下士は人と書く」との規定を加え、恵公の妾の仲子に装具を贈るのは人倫を乱したものだから、筆誅を加えて冢宰の名を書いた、とする(胡安国『春秋伝』巻1)。
(*27)「含」は含玉のこと。死者の口に含ませる葬具。
(*28)文公5年の左氏経文に「王使榮叔歸含且賵」とある。一般に春秋経は周王を天王と書く。しかるにここでは「天王」ではなく「王」と書かれている。これに対して胡安国は、宰咺のときと同様に人倫を乱した罪を指摘し、天王が天の道を踏み行えなかったので、天の字を削ったと解釈する(胡安国『春秋伝』巻14)。
(*29)桓公七年の左氏経文に「夏、穀伯綏來朝。鄧侯吾離來朝」とある。綏と吾離はおのおの穀伯と鄧侯の名。いくつかの例外を除き、一般に生きながら名を記される諸侯はいない。
(*30)何休の学説。「弑逆の人」は魯の桓公を指す。桓公は、先君であり、かつ自身の兄にあたる隠公を弑して魯の君主になった。弑は臣下・子供が君主・親を殺したときに用いる言葉。弑逆も同じ。「朝す」は謁見の意。聘との区別もあるので、訳語は充てない。
(*31)滕子と杞侯の来朝は桓公2年に見える。なお公羊伝と穀梁伝は杞侯を紀侯に作る。
(*32)隠公11年に「十有一年、春、滕侯・薛侯來朝」とある。
(*33)何休の学説。「侯という理由。春秋は隠公を始めて天命を受けた王とみなしている。滕と薛は先んじてその隠公に朝した。だから褒めたのである」とある。隠公を受命の王とみなす考えは公羊伝特注のもので、宋代では完全に否定され、むしろ公羊伝(何休)の誤謬を証明する有力な根拠となった。
(*34)胡安国の学説。ただし類似の学説は他にも多い。以下、三伝以外の学説は、比較的有名なものの姓名を挙げるに止める。
(*35)杜預と范甯の学説。
(*36)公羊学にこの種の解釈がある。なお荊の初出は荘公10年、楚人の初出は僖公元年、楚子の初出は僖公21年にあたる。
(*37)いずれも経文に見える事柄。
(*38)経文に照らして考えると、月を書くものが多く、学説に矛盾がある。
(*39)「氷」は経文に存在しない。恐らく「冰」のことであろう。
(*40)「彗孛」は経文に存在しない。恐らく「星孛」のことであろう。
(*41)「日月を例としない」とは、上文の「日月によって褒貶を示す」と同義。詳しくは〔補注1〕を参照。
(*42)己丑の翌日は庚寅になる。
(*43)「凡」と「目」は春秋経の書き方を説明するとき用いられる用語。目は小目の意味で、事を詳細に記述すること。凡は大凡の意味で、事のあらましを記述すること。
(*44)呉の初出は成公7年、呉人の初出は襄公5年、呉子の初出は襄公12年(ないし29年)。
(*45)柔、溺、宛、詹ともに大夫の名。
(*46)春秋の初期は「柔會宋公、陳侯、蔡叔、盟于折」(桓11)や「溺會齊師伐衞」(荘3)などのように、「柔」「溺」の名だけが経文に書かれている。しかし後になると「季孫行父如齊」(文18)などのように氏が書かれるようになる。
(*47)隠春秋の初期は「鄭伯克段于鄢」(隠1)のように、悪逆の人は「段」と名のみが書かれ、氏は書かれなかった。しかし後になると「晉趙盾弑其君夷皐」(宣2)のように氏が書かれるようになる。
(*48)呉と楚は、君主と臣下とを問わず「呉人」「楚人」と書かれあったものが、後になると楚の「楚公子結帥師伐陳」(哀10)や呉の「閽弑呉子餘祭」(襄29)と書かれるようになる。
(*49)僖公9年の左氏経文に「夏、公會宰周公、齊侯・宋子・衞侯・鄭伯・許男・曹伯于葵丘」とあるのを指す。宋子は後の宋の襄公で、当時は喪に服していた。
(*50)杞伯の爵位は諸説ある。桓公3年の左氏経文(三伝同じ)には「六月、公會杞侯于郕」と記され、杞侯になっている。しかしそれ以外は杞伯と記されている。滕侯は隠公10年の「十有一年、春、滕侯・薛侯來朝」(左氏経文)を最後に、滕子と記される。
(*51)荘公16年の左氏経文に「冬、十有二月、會齊侯・宋公・陳侯・衞侯・鄭伯・許男・滑伯・滕子同盟于幽」とあり、男爵の許男が伯爵の曹伯・滑伯の前に置かれている。
(*52)僖公16年の左氏経文に「冬、十有二月、公會齊侯・宋公・陳侯・衞侯・鄭伯・許男・邢侯・曹伯于淮」とあり、許男が邢侯の前に置かれている。
(*53)襄公5年の左氏経文に「公會晉侯・宋公・陳侯・衞侯・鄭伯・曹伯・莒子・邾子・滕子・薛伯・齊世子光・呉人・繒人于戚」とあり、薛伯の前に子爵の君主が置かれている。
(*54)襄公11年の左氏経文に「公會晉侯・宋公・衞侯・曹伯・齊世子光・莒子・邾子・滕子・薛伯・杞伯・小邾子伐鄭、會于蕭魚」とあり、斉世子光が子爵や伯爵の君主の前に置かれている。
(*55)文公2年の左氏経文に「夏六月、公孫敖會宋公・陳侯・鄭伯・晉士穀、盟于垂隴」とあり、公孫敖が諸侯と会盟している。
(*56)定公4年の左氏経文に「三月、公會劉子・晉侯・宋公・蔡侯・衞侯・陳子・鄭伯・許男・曹伯・莒子・邾子・頓子・胡子・滕子・薛伯・杞伯・小邾子・齊國夏于召陵、侵楚」とあり、斉の大夫である国夏が伯者・晉侯と会している。

補注〕→別頁


作成日:2009/10/29
最終更新日:2009/11/01

inserted by FC2 system