第四論文:世変

世変

春秋を読むものは、まず大義(*1)を明らかにし、次いで世変を知る必要がある。

では世変とは何か。春秋の始まりは、世道(*2)が一変したことを示している。春秋の終わりもまた世道が一変したことを示している〔補1〕。劉知幾はこう言った。――「孔子の歴史叙述は、堯舜に始まり、獲麟に終わる」と(*3)。『尚書』終篇が春秋の篇端に当たるためこう言ったのだろう。孔子は『尚書』を編纂したとき、文侯之命で終わらせた(*4)。それは文侯之命が平王の始年だからである。そして〔『春秋』の始まる〕隠公の初年は平王の末年である。平王が即位したとき、不倶戴天の仇に報いぬばかりか(*5)、文侯に命を与えては、「汝は功労多く、我を艱難から救ってくれた。患いは既に止んだ。汝にひと樽の秬鬯を授けよう。功は既に報いた。汝は帰って汝の民を見てやり、汝の国を安んぜよ。国家にもはや騒動はない」と言った(*6)。この一篇を読んだだけでも、もはや周室復興に望みのないことは明白である。しかし聖人はなおも〔周の天命を〕断ち切ろうとしなかった。そして平王の治世四十九年にして少しも周室復興の志がないのを見て、ようやく望みを絶ったのである。そしてこれ以上を西周とし、これ以下を春秋としたのである。これを世道一変の機と言わずにおれようか。これこそ春秋の始まる理由である〔補2〕

春秋の時代に突入すると、夷狄は〔中華の地で〕暴れるようになったが、それでもなお〔中国と夷狄に〕勝敗があった。しかし獲麟の前年になると、呉が蛮夷の習俗のまま、気兼ねなく晉侯とともに両伯となった(*7)。春秋の時代に突入すると、大夫は〔諸侯の力を抑えて〕権力を握るようになったが、それでもなお君主の位を奪うものはなかった。しかし獲麟の年になると、斉の陳常は君を弑し、これ以後、斉は田氏の所有に帰した(*8)。魯に於いても、季孫が君主〔の昭公〕を放逐して以来、国政は全く三家に握られ、魯の君主は贅旒〔の如き飾り物〕となってしまった(*9)。晉に於いても、趙鞅が絳に入って以来、国政は全く六卿の手に握られることになった。趙籍・韓虔・魏斯が諸侯となる前兆は、もう整っていたのである(*10)。かつては中国と関係ある夷狄の中、楚が最も強大だった。ところが今や一等国たる東方の魯が、辺鄙なる下国の越ににじり寄り、自存の計をなしている。かつては諸侯にはなお伯者(*11)がいた。ところが今や伯主の威令は振るわず、城を争い地を狙う諸侯は連日のように揉めごとを起こし、一日として安寧のときがなくなった。したがって、獲麟以前のことは、〔王者の秩序ある〕世道が変化して春秋の時代になったものと言えよう。そして獲麟以後にまた世道が変化して、戦国の世となったのである。これを世道一変の機と言わずにおれるだろうか。これこそ春秋の終わる理由である。

春秋の世変

しかしこれだけではない。春秋一経を通観すれば、いわゆる隠桓荘閔の春秋があり、いわゆる僖文宣成の春秋があり、いわゆる襄昭定哀の春秋がある(*12)。

伯主〔斉の桓公〕が生まれる前、〔桓公は〕荘公十三年に北杏の地で諸侯と会し、二十七年に幽の地で同盟した(*13)。こうして天下の諸侯が一国の命令を承けるようになった。天下の諸侯が一国の命令を承けることは、いまだかつてなかったことである。僖公元年に斉は邢を移転させ、三年〔校1〕に衛に城を築き、四年に楚を伐ち、五年に世子に会し、九年に葵丘の地で会を行った(*14)。中夏の諸国を安撫し、夷狄を抑える力は、いつも伯主にあったのである。

伯主が生まれる前、諸侯には統ぶる者がおらず、天下の君大夫は、まだ王の存在を意識していた。だから隠桓時代の春秋は、各々〔校2〕王についての記述がある。しかし伯主が生まれてからは、諸侯に統ぶる者が生まれ、天下の君大夫は王の存在を忘れていった。だから僖文以後の春秋は、ほとんど王についての記述がないのである。

伯主が生まれたことは、確かに世道にとって一つの幸福だった。しかし王道の跡が潰えたことは、かえって世道の衰えではなかったか(*15)。僖公十七年に〔斉の桓公こと〕小白が卒した。小白が卒すと、楚は猛威を振るい始めた。中国に伯者なきこと十余年、僖公の二十八年に城濮の戦があった(*16)。こうして中国の伯権は、かつて斉の桓公にあったものが、今や転じて晉の文公に帰したのである。晉の襄公がこれを受け継ぎ、なお文公の伯業をよく守った。しかし〔襄公の後継者〕霊・成・景・厲の諸公は伯業を継ぐに不足があった。悼公は再び伯者となり、〔楚の側についていた〕鄭を〔中国に〕引き入れ、楚を従え、まだしも期待できるものがあった。しかしこれ以後、晉の伯業は振るわなかった。

襄公二十七年の宋の会に於いて、晉と楚に従う〔校3〕諸国が各々会見し、そして昭公元年の虢の会に於いて、再び〔宋の会での〕誓約を確認しあった。こうして晉と楚は対等になったのである(*17)。昭公四年、楚の霊王は申の地で大会(*18)を挙行したが、そのとき斉の桓公の「召陵の盟」の先例を用いた。ところが晉は中国に関与せぬこと十年、平丘の盟(昭13)で再び中夏の盟主になったとはいえ、晉が諸侯と会したのは、これ以後ただ鄢陵(*19)のみ。この後、ふたたび参盟(*20)が現れた。参盟が現れてから後は、盟を主宰する諸侯はいなくなった。

天下に伯者がいるのは、美事とは言えない。しかし天下に伯者がいないのは、些細なことではない。天下に伯者がいなくなり、春秋は終わる。だから隠桓荘閔の春秋を読むと、確かに王道の潰えを痛んではいる。しかし襄昭定哀の春秋を読むならば、伯業の衰亡に最も心を痛めているのである。以上はその重要なものを挙げたに過ぎない。

その他の重要事項

その他、例えば荊人の来聘に対して、はじめは夷狄の臣に名と字を書くことはなかったが、後には名氏すら記されるようになった(*21)。無駭と挟の卒に対して、はじめは諸侯の大夫に氏〔校4〕を書くことはなかったが、後には生まれながら名氏が記されるようになった〔校5〕(*22)。はじめは諸侯と諸侯が盟を行っていたが、後には大夫が諸侯と盟を行うようになった。はじめは諸侯が互いに盟を行っていたが、後には大夫が互いに盟を行うようになった。はじめは諸侯が天子のまねごとをしていたが、後には大夫が諸侯のまねごとをするようになった。はじめは大夫が諸侯の権柄を盗んでいたが、後には陪臣が大夫の所有地を盗むようになった。

春秋一経を通覧した場合、大抵〔世道は〕降下を続け、ますます浮薄になっていく。春秋から上に遡れば、文武成康の盛代に達し、堯舜の御代に到達する。春秋から下に降れば、七雄分裂の極に達し、秦に至らねば止まなかった。後世、『資治通鑑』を作った者は、韓・趙・魏が諸侯となったところに篇端を求めたが(*23)、それもまた春秋の後を継ごうとしてのことであろう。

小結

春秋を修める後学の徒は、まず大義を明らかにし、理の精微を極め、次いで世変を観て、事実を研鑽しなければならない。そうすれば春秋一経は概ね理解できるだろう。



校勘

〔校1〕底本は「三年」に作る。稗編に拠り「二年」に改める。
〔校2〕底本は「各」に作る。稗編は「多」に作る。下文の「寡」と対にするなら「多」の義が長ず。
〔校3〕底本は「晉楚之後」に作る。傅跋、四庫本、稗編、本義に拠り「晉楚之従」に改める。
〔校4〕底本は「有書氏」に作るが、稗編は「有書字」に作る。
〔校5〕底本は「名氏著」に作るが、本義は「賜氏著者」に作る。

訳者注

(*1)具体的には第三論文の分義・名実・幾微を指す。
(*2)世道は世の中の習慣やあり方を指す。道徳的理念を込めて使われる場合が多い。
(*3)『史通』巻6の叙事に見える。孔子の歴史叙述は、堯典(『尚書』冒頭)に始まり、獲麟(『春秋』最終条)に終わるという意味。
(*4)文侯之命は『尚書』の一篇。堯の時代の堯典から始まる『尚書』は、春秋直前の文侯之命で終わる、という意味。『尚書』には秦の穆公を記した秦誓があり、文侯之命より時代が降る。しかし周室に関わる篇としては、文侯之命が最後の篇になる。
(*5)犬戎に殺された前の君主・幽王の報復をしなかったことを意味する。
(*6)文侯之命の言葉を踏まえたもの。『春秋或問』巻1隠公条にも同様の指摘がある。秬鬯(きょちょう)は黒黍と鬯で造った祭祀に用いる酒。
(*7)黄池の会を指す。黄池の会は解釈が分かれる。宋代では孫復以来の「黄池の会を以て春秋の終わりに充てる」学説と、左氏伝を重んずる「単なる諸侯会合の記録」とみなす学説の二つがある。呂大圭は前者を取ったのであろう。『春秋或問』巻20の公会晉侯及呉子于黄池条を参照。 (*8)陳常は陳恆(田成子)のこと。陳恆の弑君は、哀公14年の左氏伝続経に「齊人弑其君壬于舒州」とあり、左氏伝に「甲午、齊陳恆弑其君壬于舒州」とある。
(*9)季孫氏による昭公の放逐は昭公25年のこと。三家は季孫氏、叔孫氏、孟孫氏を指す。
(*10)趙鞅のことは、定公13年の左氏伝経文に「秋、晉趙鞅入于晉陽以叛」とあるのを指す。六卿は知・趙・韓・魏・范・中行の六氏を、「趙籍・韓虔・魏斯云々」は趙・韓・魏が諸侯となったことを指す。なお本文の叙述には誤りがあり、正確には趙鞅の叛乱により范氏と中行氏が滅亡し、知・趙・韓・魏の四氏が権力を握った。
(*11)「伯者」は覇者に同じ。下の「伯主」は伯国(伯者の国)の君主の意。
(*12)陳傅良『春秋後伝』の説法をまねたもの。現在は樓鑰の序文に見える。
(*13)荘公13年の左氏経文に「十有三年、春、齊侯・宋人・陳人・蔡人・邾人會于北杏」とあり、つづく27年に「夏、六月、公會齊侯・宋公・陳侯・鄭伯同盟于幽」とある。
(*14)上から順番に経文を列挙すると、僖公元年の「夏六月、邢遷于夷儀」、同3年の「春王正月、城楚丘」、同4年の「四年、春、王正月、公會齊侯・宋公・陳侯・衞侯・鄭伯・許男・曹伯侵蔡。蔡潰、遂伐楚、次于陘」、同5年の「公及齊侯・宋公・陳侯・衞侯・鄭伯・許男・曹伯會王世子于首止」、同9年の「夏、公會宰周公・齊侯・宋子・衞侯・鄭伯・許男・曹伯于葵丘」。いずれも桓公が伯権を確立する過程の会盟討伐。
(*15)「伯者が現れ、夷狄から中国を守ったのは、世道にとって一つの幸福であった。しかしこれによって王道が途絶えたのは、かえって世道にとって不幸ではなかったか」という意味。
(*16)城濮の戦いは、晉の文公が楚の勢力を中国から退けた戦い。これ以後、晉の伯権が確立した。
(*17)宋の会で晉と楚に従う諸侯が各々会見を持ち、虢の会で再びそれを確認した。これにより晉と楚は各々諸国を従える対等の関係になった。したがって中華と夷狄が対等になったことを意味する。
(*18)楚が十ヶ国以上の諸侯を従えて会合をもったことを指す。
(*19)昭公4年の「召陵の会」の誤り。『或問』巻19会于召陵侵楚条に同趣旨の文が見える。
(*20)「参盟」は三国以上が参加する盟の意。ここでは伯主のいない三国以上の盟を指す。
(*21)『或問』巻3衛師入郕条を参照。
(*22)『或問』巻4無駭卒条を参照。
(*23)『資治通鑑』は司馬光の著。春秋と同じ編年体を用い、春秋の後を承けて歴史を論述したもの。ただし春秋の終端である獲麟から筆を起こすことなく、趙・韓・魏が諸侯となったところから叙述を始めている。

補注〕→別頁


作成日:2009/10/30
最終更新日:2009/11/01

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