第五論文:三伝の得失

総論

春秋を学ぶものは、三伝なくしては考究すべき術を持たない。しかし篤学の士は往々にして三伝を捨て去り、経文のみを解読しようとする(*1)。これでは相互に矛盾を生み、統一的な理解はできないだろう。

私はかつてこのようなことを考えた。――左氏は事に詳しく、〔公羊伝と穀梁伝、すなわち〕公穀二伝は理に深い。左氏はかつて国史を見たのか、事には詳しい。しかし理には不明なところがある。公穀二伝は経生(*2)の所伝に拠ったものか、理には深い。しかし事には誤謬が多い。だから〔左氏と公穀二伝の〕両者を併せ読む必要がある。しかし左氏は事を備えるとはいえ、まま事の実(*3)を得ていないものがある。公穀は理に通ずとはいえ、まま理の正に害あるものがある。これらは熟知しておかねばならないものである。

左氏の得失

さて左氏は、一つの事に対して、必ずその由来を明らかにしている。また虚実を見抜き、世情に熟達してもいる。しかし往々にして成功と失敗を問題として、その是非を問題とせず、時勢の流れ泥んで、大義の所在に暗いところがある(*4)。

例えば、周と鄭が人質を交換したことに対して、左氏は「信用は真心がなければ、人質がいても無益である」と言う(*5)。宋の宣公が穆公を跡継ぎとしたことに対して、「人を知るものと言わねばなるまい」と言う(*6)。鬻拳が兵の威力を借りて楚子を諫めたことに対して、「鬻拳は君主を愛している」と言う(*7)。逃亡しては国境を越えず、帰国しては〔弑君の〕賊を討たなかった趙盾に対して、「惜しいことだ、国境を越えていれば〔賊を討たなかった罪は〕免れたものを」と言う(*8)。これらは左氏が理に暗いがためである〔補1〕

さらに左氏の叙述には、事の叙述に際して、実を失ったものがとりわけ多い。例えば、楚は力を蓄えるや、あっという間に東方諸侯を侵蝕しはじめた。しかしまず斉の桓公が現れて楚を駆逐し、ふたたび晉の文公が楚を駆逐した。その功績は偉大である。これこそ孟子の言う「〔悪いことは悪いが〕まだましなもの」(*9)である。しかし楚を駆逐するに際して、軽々しく兵を挙げるだけでできただろうか。まず楚の手足を断ち切り、その同盟諸国を解体してからでなければ、容易ではなかったろう。だから桓公が楚を駆逐したときには、まず〔楚の同盟国だった〕蔡に軍を進める必要があったし、晉の文公が楚を駆逐するときには、まず曹と衛に軍を進める必要があった。これが事実である。

しかし左氏はこの事実を理解せず、桓公が蔡に軍を進めたことに対しては、「蔡姫の為である」(*10)と言い、文公が曹と衛に軍を進めたことに対しては、「入浴をのぞき見し、土塊を与えた為である」(*11)と言っている。左氏がこの種の誤謬を犯すのは、事の由来を探るべく、些細なことに気を取られたためである。このため夷狄を駆逐し、中夏を安撫した桓公と文公の偉大な功績に対して、かえって理解が及ばなかったのだ。その他の叙述も概ねこれと同じである。ならば左氏の記す事は、確かに放擲してよいものではないが、信頼し切ってもいけないのである。

左氏学派の人々は、「丘明は春秋経を仲尼から受けた」(*12)、「〔丘明は〕聖人と好悪を同じくする人だ」(*13)と主張する。しかし左氏の主張は経に悖るものが多く、とても聖人と好悪を同じくする人とは言えない。孔子は「左丘明 之を恥ず。丘も亦た之を恥ず」と言ったが、恐らくこれは「ひそかに〔太古の賢人〕老彭に比(なぞら)う」(*14)と同じ意味であろう。ならば丘明は〔彭祖と同じく〕孔子以前の人ということになる。しかし左氏伝による春秋の解釈は、智伯〔の滅亡〕で終わっている。ならば孔子以後の人ということになる(*15)。

ある人は「聖人と好悪を同じくした人は左丘明で、春秋伝〔すなわち左氏伝〕を作った人は左氏だ」と言う(*16)。根拠ある発言である。またある人は「左氏は六国時代の人だ」と言い(*17)、またある人は「楚の左史倚相の後裔である」と言う(*18)。なるほど、左氏伝にある「虞は臘せず」などの言葉(*19)は、秦人が十二月を臘月とした(*20)ことによるものであろう。また左氏伝の叙述は、楚のことが極めて多い。無経の伝はあっても、無伝の経は存在しない(*21)。これもまた根拠ある発言である。

公穀二伝の得失

公羊と穀梁の二氏は、もとより仲尼に経を受けた人々ではない。両書記載の事は、多く伝聞に基づいている。また国史を見なかったため、その事には誤謬が多い。記述された事に目を瞑り、その理を読み取るならば、確かに精確なところはある(*22)。しかし理に害のあるところも相当ある。これは正しき知識を求めようとする者(*23)が、よくよく弁えておく必要のあるところである。

公羊は隠公と桓公の貴賤に対して、「子は母の故に貴く、母は子の故に貴い」(*24)と言う。確かに「子は母の故に貴い」は正しい。しかし「母は子の故に貴い」は本当に正しいのだろうか。この言葉を広げて考えればどうなるだろうか。――正母の地位を窺う後世の妾母たちは、みなこの言葉を根拠としたのである。穀梁は世子の蒯聵に対して、「父の命を受けて祖父の命を辞退すれば、祖父を尊ばぬことになる。〔父の命を〕受けぬのは、祖父を尊んだのである」(*25)と発言する。確かに「祖父を尊ぶ」ことは正しい。しかし「父の命を受けぬ」ことは本当に正しいのだろうか。この言葉を推し広げればどうなるだろうか。――父子の争奪を啓いた後世の人々は、みなこの言葉に口を藉りたのである。

「晉の趙鞅 晉陽に入り以て叛く。趙鞅 晉に帰る」(定13)に対して、公羊と穀梁は「経に『帰る』と書くのは何故か。地でもって国を正したからである」と言う。このため後世の臣子の中には、領地で叛乱を起こしながら、「君側の小人を排斥する」と発言するものが現れた〔補2〕。「公子結 〔陳人の〕婦に〔鄄に〕媵し、遂に〔斉侯・宋公と〕盟す」(荘19)に対して、公羊は「大夫たるもの君から命は受けるが、辞は受けない。国境を出た場合、社稷を安んじ、国家に利をもたらし得るならば、独断してもよい」と言う。このため後世の人臣の中には、異国の地で事を起こしながら〔校1〕、「社稷を安んじ、国家に利をもたらすのだ」と発言し、独断専行するものが現れた〔補3〕。祭仲が〔宋に〕執えられ、鄭忽が出国することになったのは、祭仲に罪がある。ところが公羊は「反経の権に合している」と言う。このため後世あたかも囲碁を打つかの如く、君主を廃置するものが現れた〔補4〕

聖人が経を作ったのは、理を明らかにするためである。ところが伝を作った人々は道理が分からず、勝手な発言をし、このため是非が顛倒し、義理の弁別が失われた。その行き着くところ、下の者が上の者のまねごとをし、卑しき者が尊き者を凌ぎ、父と子が対等となり、兄弟が仇敵の関係に陥った。大臣〔校2〕でありながら、兵を国都に向け、国外に出ては独断専行を行った。かくして国家は姓を易えた(*26)。ところが大臣たるもの、かえってみずから徳を称えて恥じぬ有様である。君としては武帝(*27)の如き、臣としては雋不疑(*28)の如き、いずれも春秋をもって国論を定めると言いながら、その非を悟らなかった。

以上はとりわけ害のあるものだが、これらはすべて事の実を見誤ったことによるのである。だからこう言うのだ。――結局のところ三伝は事の実を見誤っているのだが、公羊伝以上に過失の多いものはない。そして何休・范甯・杜預の三家は各々自説を唱えたが、何休以上に過失の多いものはない、と。

何休と范甯の得失

公羊の過失については、既にその一二〔校3〕を挙げた。しかし何休の過失はさらに甚だしい。「元年春王正月」(隠1)に対して、公羊伝は「君主の始年である」と言うに過ぎない。ところが何休は「春秋は新王の受命を魯に託した」(*29)と言う。滕侯の卒に「名」〔校4〕を書かないことに対して(隠7)、公羊は「滕は微国だから、侯と書いても紛れない」と言うに過ぎない。ところが何休は「春秋は魯を王とし、隠公を始め〔て命を受けた王〕と見なした」と言う。そもそも「周を退け、魯を王とする」学説(*30)は、公羊に明文がない。ところが何休はこれを主張している。聖人を誣告すること実に甚だしいと言わねばならない。

公羊は「母弟を弟と称し、母兄を兄と称す」(*31)と言う。これは既に間違っている。しかし何休はさらにこう言うのである。――「春秋は、周の文を変じ、商の質に従った。質家は親に親しむ。だから群公子よりも一等親しむべきことを明らかにしたのである」(*32)と。後世、同母弟に親しみ、父の子孫を冷遇した者は、いつもこの言葉を拠り所とした。公羊は「嫡子〔校5〕を〔後継ぎに〕立てる場合、年長を選び、賢き者を選ばない。庶子を立てる場合、身分の貴きを選び、年長を選ばない」(*33)と言う。この言葉は確かに根拠がある。ところが何休はこう言うのである。――「嫡子が孫を遺して死んだ場合、質家は親に親しむから、先に弟を後継ぎとする。文家は尊を尊ぶから、先に孫を後継ぎとする」(*34)と。後世、質家と文家の異同に惑い、嫡庶の騒動を引き起こした者は、いつもこの言葉を拠り所とした。

これ以外にも、「〔公 〕戎と〔潜に〕会す」(隠2)の経文を解釈しては、「王者は夷狄を治めない。しかるに『戎』を経文に記すのは、来るものは拒まず、去るものは追わぬからだ」と言う。春秋が作られたのは、もとより夷狄と中華の区分を正すためである。それなのに「夷狄を治めない」などと言ってよいのだろうか。「天王 〔宰咺をして〕来たりて〔恵公仲子の〕賵を帰らしむ」(隠1)を解釈しては、「王者はその土地によって諸侯に職を分かち、ともに南面して統治に当たる。全くの臣下として遇しない」と言う。春秋が作られたのは、もとより君臣の分を正すためである。それなのに「全くの臣下として遇しない」などと言ってよいのだろうか。

「隠公三年〔校6〕、春、二月、己巳、日に之を食する有り」に対して、公羊は「異を記した」と発言するに過ぎない。ところが何休は「〔この異を記したのは、〕これ以後、衛の州吁は君主を弑し、諸侯ははじめて〔諸公の〕まねごとをしだしたからだ」(*35)と言う。桓公元年の「秋、大水あり」に対して、公羊は「災を記した」というに過ぎない。ところが何休は「〔災を記したのは、〕これ以前、桓公は隠公の位を簒奪し、勝手に〔鄭と〕朝宿の地を交換した(*36)。その陰気と怨気(*37)が〔この大水を〕招いたのだ」と言う。その他、地震・山崩・星電・雨雪・螽・螟・彗孛(*38)などに対しても、執拗に天変の原因を追及し、人事と災異の対応(*39)を証明しようとする。もし一致を見い出せないようなら、強弁して止まない。春秋はもともと災異の対応を記さない。ましてやこれほど煩瑣滅裂なことがあろうか。この種の発言はすこぶる多いが、すべて何休の妄作である。

愚見によれば、〔杜預・何休・范甯〕三子の解釈の中、范甯のみやや過失が少ない。彼は穀梁の穏当を欠く部分に対して、「私には分からない」と言っている。恐らく穀梁の過ちを批判してのことであろう。しかし何休は曲説をなし、公羊の過誤を増大させている。だから「范甯は穀梁の忠臣だが、何休は公羊の罪人だ」と言うのである。



校勘

〔校1〕底本は「有事異域」に作る。稗編は「生事異域」に作る。
〔校2〕底本は「大臣」に作る。傅跋、稗編、本義は「人臣」に作る。
〔校3〕底本は「略舉其二」に作る。稗編、本義に拠り「略舉其一二」に改める。
〔校4〕底本諸本ともに「日」に作る。公羊伝および文意に鑑みて「名」に改める。
〔校5〕原文は「立子」に作る。稗編、本義、および公羊伝に拠り「立嫡」に改める。
〔校6〕底本は「二年」に作る。稗編、本義および経文に拠り「三年」に改める。

訳者注

(*1)いわゆる「三伝を高閣に束ね、独り遺経を抱えて終始を窮む」という韓愈の言葉を踏まえた発言。三伝を無視し、春秋経文のみを読んで経文の主旨を理解していこうとする宋代に流行した立場を形容したもので、肯定・否定のいずれの立場からも用いられる。
(*2)経学の先生(経師)から旧説を伝承した人々の意。
(*3)「事の実」は「事実」の意。事の実相、あるいは真実の謂。
(*4)行為の利害ばかりを問題視し、その行為が倫理的に正しいか否かを忘れている、という意味。
(*5)隠公3年の左氏伝に見える。
(*6)同上。
(*7)荘公19年の左氏伝に見える。
(*8)宣公2年の左氏伝に見える。
(*9)『孟子』尽心下の「春秋無義戰、彼善於此、則有之矣」をふまえたもの。春秋には正しい戦いなどないが、ましなものはある、という意味。
(*10)僖公3年の左氏伝に見える。左氏伝には、斉の桓公は蔡の姫君と船遊びをしたとき、ふざけて舟を揺らした姫君に腹を立て、これを離縁して蔡の国に帰した。ところが蔡の人はすぐに姫君を別の国に嫁に出した、とある。これと蔡侵略との関係は見えない。ただし杜預の注には「明年の斉の蔡侵略の為に伝を発した」とある。
(*11)正確な記述ではないが、僖公28年の左氏伝を指すのであろう。なお入浴をのぞき見たのは曹の共公で、土塊を差し出したのは衛の民である。
(*12)杜預の序に「左丘明受經於仲尼」とあるのによる。杜預は左伝学者として著名。
(*13)『漢書』劉歆伝に「〔劉〕歆以為左丘明好惡與聖人同」と見える。顔師古は下に見える『論語』公冶長の「子曰、巧言令色足恭、左丘明恥之、丘亦恥之。匿怨而友其人、左丘明恥之、丘亦恥之」を根拠に挙げている。劉歆は左伝学者として著名。
(*14)『論語』述而の言葉。
(*15)左氏伝の最後は、孔子没後十数年の智伯滅亡で終わっている。ならば左氏伝を完成させた人物は、孔子没後まで生存していなければならない。
(*16)趙匡の学説。『春秋集伝纂例』巻1趙氏損益義を参照。
(*17)『六経奥論』巻4の左氏非丘明辨(左氏乃六國人)に見える。以下の諸説は創始者不明の場合が多い。そのため著名なもののみあげておく。
(*18)左史倚相は昭公十二年左氏伝に見える。『朱子語類』巻83春秋綱領の「或云左氏是楚左史倚相之後云々」を参照。
(*19)僖公五年左氏伝に見える言葉。臘は歳末の祭りの名。「虞は臘せず」は「虞国は臘の祭祀を行い得まい」、つまり「虞国は臘の時期までに滅亡する」の謂。
(*20)『二程外書』巻11の「子言左傳非丘明云々」に見える程頤の学説。また『六経奥論』巻4左氏非丘明辨など。
(*21)「無経の伝」は対応する経文のない伝のこと。左氏伝に多く、穀梁伝にも少しく存在する。公羊伝にはないとされる。「無伝の経」は「無経の伝」に対する造語で、対応する伝文のない経の意。この学説の保持者は不明。
(*22)第五論文冒頭の「公穀二伝は理に深い」を承けて言ったもの。
(*23)朱子学の用語。「知(知識)を致(極)める」こと。
(*24)隠公元年の公羊伝に見える。正妻の子は貴いが、妾の子は卑しい。したがって妾の子がたとえ君主になっても、母(先君の妾)は妾のままである。しかし公羊伝のように「母は子の故に貴い」ことを認めれば、庶子が君主になった場合、その母(庶母)を先君の正妻と認めることができる。これは儒学の倫理観に悖る。この公羊学説は宋代によく批判の対象となった。
(*25)哀公二年の穀梁伝に見える。蒯聵は衛霊公の子で、父の霊公に国外追放された。その霊公の死後、蒯聵の子の輒が後を継いだ。このため蒯聵は衛の君主になるべく帰国したが、息子の輒に拒まれた。穀梁伝の「父」は蒯聵を、「祖父」は霊公を指す。
(*26)易姓革命のこと。
(*27)前漢の武帝。
(*28)雋不疑は儒学をもって名を知られた前漢の政治家。『漢書』巻41に伝あり。呂大圭の批判は、次の発言に向けられたものであろう。昭帝の時代、衛太子(武帝に廃された皇太子)を名乗る人物が現れた。朝廷の大臣はその処遇に迷ったが、不疑は前出の蒯聵に対する公羊学説を支持した。
(*29)魯を命を受けた新王と見なした、と言う意味。
(*30)孔子は春秋経を作ったとき、経文上では魯を受命の王とみなし、従来の王である周を退けた、という学説。公羊学特有の論理で、その他の春秋学者は否定している。
(*31)隠公7年の公羊経文「齊侯使其弟年來聘」に対する公羊伝に見える。母弟・母兄は同母弟・同母兄の意。
(*32)同上の何休注に見える。商は王朝の名。周の前の王朝。質家は内実を重視する人々。質家は内実を重視するから親族を重んずる。
(*33)隠公元年の公羊伝に見える。「後継ぎを決める場合、正妻の子供は年齢順で選び、人物の優劣で選ばない。妾の子の場合は、身分で選び、年齢で選ばない」の意。
(*34)文家は形式を重視する人々。文家は形式を重視するから、君の系統を重んずる。
(*35)衛の州吁は隠公4年の経文に見える。「諸公のまねごと」は、隠公五年「初献六羽」の公羊伝に拠る。
(*36)桓公元年の「鄭伯以璧假許田」を指す。公羊伝は「許田」を魯の朝宿の地(周王に謁見するために宿る土地)と解釈する。
(*37)何休の「陰逆而與怨氣并之所致」をふまえた発言。公羊疏は「『陰逆』は勝手に朝宿の地を交換したことを指し、『怨気』は〔隠公が弑されたことに対する〕民の悲痛の心を指す」と解釈する。
(*38)地震は「九月癸酉、地震」(文公9年)、「五月甲子、地震」(襄公16年)、「己卯、地震」(昭公19年)、「八月乙未、地震」(昭公23年)を指す。山崩は成公5年の「梁山崩」を指す。雨雪は「庚辰、大雨雪」(隠公9年)、「冬十月、雨雪」(桓公8年)、「春王正月、大雨雪」(昭公4年)を指す。彗孛は「有星孛入于北斗」(成公14年)、「有星孛于大辰」(昭公17年)、「有星孛于東方」(哀公13年)を指す。螽、螟は諸所に見られる。星電は「三月癸酉、大雨、震電」、もしくはこれに加えて「夏四月辛卯、夜、恆星不見、夜中星霣如雨」(荘公7年)を指すのであろう。
(*39)「人事と災異の対応」は、人事に天が応じて災異を降すという天人相関説を述べたもの。人事に災異が応ずる以上、災異に対応する人事も求められるはずである。だから何休は災異があれば、その災異の原因を人事の中に求めたのである。

補注〕→別頁


作成日:2009/10/30
最終更新日:2009/07/29

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