第一論文補注

〔補1〕天理人欲ともに朱子学の概念。天理と人欲は、人間の心の状態を指し示す対概念で、天秤に似た関係にある。人の心に天理が増せば、その分だけ人欲が減り、人欲が増せばその分だけ天理が減る。そして完全に天理が充足した状態とは、一切の人欲のない状態である。人間の求める理想的形態は、この天理を完全に充足させることにある。春秋学にこの天理人欲の概念を持ち込んだのは胡安国『春秋伝』で、本書はこの胡安国の学説(春秋は史外伝心の要典)を直接継承したものである。もともと春秋学は歴史書であるため、歴史的な事柄を論じた書物だとされてきた。ここに胡安国(および本書)は、改めて「春秋学は心の学問である」と定義したのである。

〔補2〕魯史は「国の歴書」のこと。他に旧史・国史・史などの言葉も同様の意味で用いられる。伝説によると、魯史は「春秋」なる書名だったとされる(『孟子』離婁下)。魯史はもちろん、同時代の他の国の歴史書も現存しない。そのため正確なところ魯史がどのような書物であったのか不明である。ただし「春秋経は魯史に手を加えて作られたもの」とされるので、魯史はおのずから春秋経文のような形態の歴史書であったと推測される。この魯史と春秋経の関係に対しては、大きく二つの考えが存在する。第一は春秋経は魯史に孔子が手を加えたものという考えで、ほとんどの春秋学者はこの立場を取り、本書もこれを支持している。もう一つは公羊伝から派生した学説で、春秋は孔子が各国の歴史書を持ち寄り、それを組み合わせて作った、新しい歴史書であるという考えである。第二の立場を明確に取る学者はほとんどいないが、奥深いところで学者に影響を与えている。例えば「春秋経は魯史を基礎にしたものだが、他国の歴史書を用いて補正したところもある」という主張は、第二の立場の変形的現れである。

〔補3〕本書は「春秋経は孔子が魯史に手を加えてできたものだ」と見なす立場にある。つまり本書にとって、春秋経は魯史の改訂版に過ぎないのである。ならばその歴史書である春秋経が、なぜ「天理を扶け人欲を止める書物」となるのか、との設問が生まれざるを得ないであろう。以下、第一論文の前半はこれに対する解答に費やされる。

〔補4〕朱子学の基本的思考を述べたもの。朱子学には「天地人は一貫したもの」という考えがある。天地の法則は永久不変で、人間はそれに従えば正しく、また従わなければならないとされている。随って、偉大な古代の王たちは、天地の道理を体得し、天地の道理に随って行動し、また人をしてそれに従わせることで、世の中を正しく治めたとされる。では天地の道理を体得するにはどうすればいいのか。本書が云うには、天理を明らかにすること、即ち人の心を正すことにある。

〔補5〕聖人ほどの徳ある人間は、天が命じて万民の王にするはずだから、聖人はふつう王である。しかし孔子は聖人であったのに、天子の位になかった。しかも時代は坂道を転げ落ちるように悪化していた。伝説では、孔子はこのような状況を坐視できず、さりとて王の位になく、また孔子を受け入れる君主もいなかった。だから六経を作り、後世に人の守るべき教えを垂れたが、就中『春秋』は特に切実な意味が込められた、とされる。漢代には、孔子は『春秋』を作ったとき、自身が王として振る舞い(素王説)、歴史上の人々に賞罰を加えたとする学説(賞罰説)が生まれ、『春秋』の解釈に甚大な影響を与えた。宋代になると新たな倫理観が生まれ、賞罰説は否定された。本書は賞罰説否定の典型的な学説を提示している。賞罰説については〔補10〕を参照。

〔補6〕「事」は春秋学の基本概念。歴史的な事柄や事跡を指す。現代の歴史的事実に近い概念であるが、春秋学では「事」と「事実」を区別する場合がある。春秋学者によって意見が分かれるため、原文の「事」は「事」、「事実」は「事実」のままとし、訳語を充てないことにした。なお事実は事の実相という意味で、事よりも深い意味が込められる。

〔補7〕「天子の事」は『孟子』滕文公下篇に見える言葉。「天子の事」は天子の為業(しわざ)、あるいは天子の行(おこない)を意味する。第一論文冒頭に論ぜられるように、古代の聖王は天地と体を等しくし、民をその常性に従わしめ、安寧ならしめる存在である。ではその根本は何かというと、人の心を正すことに他ならない。その古代の聖王の為業(天子の事)を説いたのが、本書『春秋』である。従って、後段に論ぜられるように、「天子の事」を単に「王の賞罰の権」と見るのは、『春秋』の効能を矮小化したものであるばかりか、そもそも天子の事が何を意味するのかさえ分かっていないことになる。

〔補8〕惻隠・是非は朱子学の概念で、『孟子』の四端説を前提としたもの。人間は仁・義・礼・知の性(天理)を固有するが、それは現実的には惻隠・羞悪・辞譲・是非の情として発現する。この中、惻隠は個人の心性だが、是非は天下に行われる。従って、人間の個人的心性を正した『春秋』は、天下の是非を正すことにもなる。

〔補9〕礼楽征伐は『論語』季氏篇の言葉をふまえたもの。春秋学の常套句の一つ。礼楽征伐は、現代風に言えば「国事と軍事」を指す。随って、君主国に於いて、礼楽征伐は王に決定権がなければならない。ところが春秋時代は礼楽征伐の権が王から有力諸侯に、さらに有力諸侯からその臣下に移り、下位の者が国事と軍事を支配するようになった。このため春秋学者の多くは、礼楽征伐の権が王から離れたため、世の中が衰微したと主張する。しかし本書は、礼楽征伐の権が王から離れたという表面的なことが世の中を衰微させたのではなく、さらに根本的なもの、即ち人心が頽廃したために世の中が衰微し、世の中が衰微したから礼楽征伐の権も王から離れたと考える。随って世の中を正しい状態にもどす抜本的方法は、単に礼楽征伐の権の所在を変えるだけでなく、人心を正すところになければならないと言うのである。

〔補10〕「『春秋』は聖人が善を賞め悪を罰するために作った書物」は、賞罰説とよばれる春秋学の主流学説を指す。賞罰説は、本書の説明通り、「聖人(孔子)は、『春秋』なる歴史書の中で、過去の善人を褒め、過去の悪人を貶した」と考える学説である。これと類似の学説に褒貶説(一字褒貶説)がある。ただ賞罰よりも褒貶の方が緩やかな表現のため、「褒貶に賞罰を寓した」という言い方も可能となり、この場合は賞罰と褒貶は違う意味で用いられる。賞罰説の具体的な解釈は、以下の本文と〔補11〕を参照。なお本書の一大目的は賞罰説の否定にある。そのため第一論文後半と第二論文は、ほとんど賞罰説の否定に文字を費やしている。

〔補11〕本段は賞罰説の基本形を列挙し、その理論的根拠を明示したもの。賞罰説の基本形は、本文の指摘する通り、「〔経文に〕字や爵や氏を書くのは、聖人が褒めたからだ。名を書いたり、人と書いたり、氏を書かないのは、聖人が貶したからだ。褒めたから〔字や爵や氏を〕予し、貶したからそれらを奪ったのだ。予すとは、天子に代わって賞めたことを意味する。奪うとは、天子に代わって罰したことを意味する」である。つまり賞罰説は、経文の文字に着目し、賞罰を判定する。経文にある文字があれば賞めた、ある文字があれば罰した、と考えるのである。本文の例で言えば、経文記載の人名の中、字(あざな)や氏や爵が書かれてあれば、孔子はその人を賞めたことになる。ところが名が直書されていたり、氏が書かれていない人物だと、孔子はその人を罰したことになる。ただし第一論文で問題となっているのは、この賞罰説の根拠を具体的に確認しすることではなく、そもそも「賞罰」という概念が春秋学に相応しいかという点にある。すぐ後の段落に見える通り、本書はこの賞罰説を全面的に否定する。なお本段に見える賞罰説の具体例は、第二論文で逐一具体的に否定される。

〔補12〕本段は、上段の賞罰説に対して、本書の立場を論じたもの。本書の立場はこうである。――賞罰は文字通り、上の者が下の者を賞罰すること意味する。しかし孔子は下の者であり、上の者ではない。随って、どれほど立派な徳を備えていても、否、立派な徳を備えておればこそ、下の者としての立場を守り、賞罰は行わないはずである。しかし是非は賞罰ではない。もし王様が悪い行いをすれば、だれでも「あれは間違いだ」と指摘できる。だから孔子も王や諸侯・大夫が悪事を働けば、「あれは間違いだ」と指摘するし、立派な行いをすれば、「あれは立派だった」と言いもする。つまり是非は、身分の高下に関わらず、指摘できるのである。『春秋』はその是非を指摘したものであって、決して賞罰を主張したものではない。もちろん『春秋』を読む者は、孔子の発する是非によって、事実上、賞罰を感じることになる。しかしそれは賞罰ではなく是非である。強いて言えば、是非の中に賞罰を寓したのである、と。

〔補13〕『論語』衛霊公篇の言葉。顔淵が孔子に国の治め方を聞いたところ、孔子は「農耕に適した夏の暦(旧暦)を用い、質朴な商の車に乗り、見栄えある周の冕冠をかぶり、舜の作った韶の楽を奏でる」と答えたという。一方、『春秋』は孔子最晩年の著作で、しかも孔子が将来のために大法(正しい国の治め方)を垂れたものとされる。そこでこの二つを結びつけ、「孔子はかつて顔淵に正しい国の治め方を示した。ならば大法(正しい国の治め方)を説いた『春秋』には、当然それを用いたはずである」という考えが生まれた。主として漢代の学説に多く、唐代まで通用した。しかし宋代になると否定的になり、本書に至っては完全否定している。しかし春秋は孔子の理想を込めたものという考えは、宋代以後も春秋学に根深く残った。



作成日:2009/08/02
最終更新日:2009/08/02

inserted by FC2 system