第二論文補注

〔補1〕春秋学には「属辞比事は春秋の教」(『礼記』経解)という著名な言葉がある。この「属辞比事」の意味はなかなか難しく、学者によって意見に相違を見るが、通常は経文の辞と事を排列し、その意味(=春秋の義、すなわち褒貶)を探ることにあるとされる。その際に用いられた最も有名な手法が、ここに登場する日月の例と称謂の例(名称爵号の例)である。「例」は「比」の義で、経文を比較すること。日月の例と称謂の例の具体例は以下の本文に示されるので、ここでは概略だけ説明しておく。春秋経は「時、月、日、事」の排列によって成り立つ編年体の歴史書である。そこで類似の「事」だけを経文から抜萃し、比較して見ると、ある「事」には多く「時」が書かれ、別の「事」には多く「月」が書かれ、また他の「事」には多く「日」が書かれていることに気づく。そこである「事」が経文に記述されるときには、聖人は必ず「時」を記入したのだ、という定義が成り立つ。この記入法を経文の書法という。しかし経文の書法をつぶさに調べて見ると、書法そのものが善悪を示していることに気づく。ある「事」が善の場合、必ず「日」が書かれるというのがそれである。このような善悪のある書法を義例とよぶ。日月の例と称謂の例は、経文に日月が書かれてあるか否か、あるいはどのような称謂が用いられているかで、「事」の善悪を判断する研究方法である。この義例による春秋研究は、公羊伝と穀梁伝に頻出し、左氏伝にもまま見られ、春秋学の最も王道的な研究方法となった。しかし宋代に入ると義例説は徐々に否定され、呂大圭に至っては、本論に見えるように、全面的に否定された。しかし清代になるとまたも頭をもたげた。特に今文学派では重要な研究方法として再び重要視され、逆に宋代の義例説否定の学説が否定された。宋代の学者による義例説否定の理由は、本文に詳述されている通り、義例に矛盾が生じること、および善悪は「事」に現れるので、日月や称謂を待つ必要はないというものである。

〔補2〕以下、呂大圭は春秋経文を引いて議論を進める。念のため説明しておくと、春秋経は経書の一つとして古来儒学者の尊崇するところとなったが、経文の単行書は早くに失われ、いわゆる春秋三伝の内部に引用されるかたちでのみ現存する。春秋三伝所引の経文を比較すると、概ね一致するものの、まま文字遣いや記述に差異がみられる。呂大圭は主として左氏伝の経文を用いたようであるが、中には不当な利用と思われるところもある。例えば、公羊伝および穀梁伝の学説を問題とするときは、両書所載の経文を用いるのを通例とする。しかるに呂大圭はその場合でも左氏伝の経文を用いる場合が多い。本書に明記されるように、呂大圭は事を重んずる春秋学者であるから、左氏伝の経文を重んじたという側面はあるだろうが、三伝の間に経文の異同がある以上、これは必ずしも適切な方法とは言えない。

〔補3〕桓公16年経文、「春正月、公會宋公、蔡侯、衞侯于曹」と「夏四月、公會宋公、衞侯、陳侯、蔡侯伐鄭」を指す。本条の具体的解釈は『春秋或問』巻6の公会荘公衞侯陳侯云々条を参照。春秋では、諸侯の会盟を記す場合、もし魯公が参加しておれば、「公(魯公)」を冒頭に置き、ついで五等爵順に諸侯を排列する。「公会○公△侯□伯×男于某(公、○公△侯□伯×男と某に会す)」という具合である。しかし、もし伯者がいれば、魯公を冒頭に置き、ついで爵に関わらず伯者を置き、その後に諸侯を五等爵の順に並べる(公、晉侯○公△侯□伯×男と某に会す)。また同じ爵の間でも順序が決まっている。その他、周の使者がいる場合、世子が加わった場合、諸侯と大夫が混ざる場合など、さまざまな書き方がある。通常、衛侯は蔡侯の上に置かれる。しかし上の経文は蔡侯が衛侯の上に置かれている。春秋学ではここに聖人孔子の微意を感じ取る必要があるのである。



作成日:2009/10/31
最終更新日:2009/11/01

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