第三論文補注

〔補1〕この部分の解釈は難しい。『春秋或問』巻1王正月条には「あるひと問う。『王の正月』とは何か。曰く、先儒が既に詳細に論じている。『元年、春、王の正月』とは、旧史の文である。仲尼が経を修めた際、春三ヶ月に於いて、始めて事があったとき、特別に王の字を加えた。それによって天下のことは必ず王の秩序にあることを示し、当時の乱れを正し、後世に法を示されたのだ」とある。これによれば「王正月」は旧史の文となり、春三ヶ月の間に於いて、始めて事が記述される経文に対し「王」の字を加えたところに、仲尼の新意があったことになる。しかしこれでは本書の論述と矛盾する。『通志堂経解』所収の『或問』には誤植がまま見られるので、あるいは「元年春王正月者蓋旧文也」の「王」は衍字の可能性もある。試みに本書の論述に即して解説すると、以下のようになる。すなわち、春秋十二公の冒頭には「元年春王正月」の経文がある。この「元年春正月」は旧史の文であるが、聖人孔子はここに「王」の字を加えた。これによってあらゆる事は王の秩序下にあることを示したのである。ここに聖人の微意を見て取ることができる、となる。この学説は、古くは北宋の劉敞が唱えたものだが、呂大圭の少し後の元朝の趙汸は明白に否定している。

〔補2〕「晉侯が王を召す」とは、「臣下である晉侯が君主である周王を呼びつけた」という意味。具体的には、楚の中原進出を阻んだ晉の文公は、その余勢をかって周王を河陽の地によびつけたことを指す。ところがこの事件を、経文は「天王狩于河陽」(僖28年)と記す。しかし同年の左氏伝には「この会では、晉侯は王をよびつけ、諸侯を率いて謁見し、さらに王に狩をさせた。仲尼の評――臣でありながら君をよびつける。これでは訓戒にならない。だから経文に『天王 河陽に狩す』と記し、狩の場所でないことを示しつつ、同時に文公の徳を明らかにしたのである」と指摘する。つまり「晉侯召王」という不遜な書き方に対して、孔子は「天王狩于河陽」と改め、あたかも天王がみずから狩りに出かけたように記述したというのである。

〔補3〕襄公14年経文に「己未、衛侯出奔齊」とある。しかし実際は衛の有力貴族の甯殖らが君主を追放したものであった。この君主追放の事実は、諸侯の策書(国史のもとになる資料)に記録があったらしく、甯殖自身が「名は既に諸侯の策に書かれており、そこには『孫林父と甯殖がその君を放逐した』とある」(襄20年左氏伝)と言っている。つまり旧史に「孫林父・甯殖出其君」とあったのを、孔子は「衛侯出奔齊」と書き換えたというのである。

〔補4〕「恵公仲子」は学者によって訓み方が異なる。本書の叙述(および『春秋或問』巻2の天王帰賵条)から推すと、「恵公仲子」は「恵公の仲子」、「僖公成風」は「僖公の成風」と訓むと思われる。これは穀梁伝の学説に依拠したもので、左氏伝や公羊伝の訓み方(恵公の仲子)と異なるが、宋代では広く用いられた訓み方である。本条の意味は、仲子と成風はいずれも先君(孝公と荘公)の妾で、その子(恵公と僖公)が君主となった女性である。したがって正妻ではないから、正妻のごとき礼はできない。そこで仲子の場合は「恵公の」と書き、成風の場合は「僖公の」と書くことで、妾たる女性の所属を明らかにし、かつ事実の隠蔽を防いだ、という意味になる。

〔補5〕荘公9年の「夏、公伐齊納糾」と「齊小白入于齊」、桓公11年の「鄭忽出奔衛」と「突歸于鄭」を指す。斉の国は僖公の後、襄公が後を継いだが、内紛によって殺害された。この襄公の後を誰が継ぐかをめぐり、公子の小白と糾の間で紛争が起こった。本書はこれに対し、小白と糾はともに庶子である。そして小白が兄で、糾が弟である。だから小白が後を嗣ぐべきである。そこで春秋は「斉の小白」と書いた。すなわち、小白に「斉の」という所属を書くことで、小白が斉の後継者たることを説明したと解釈したのである。鄭忽と突についてもこれと同じである。ただし小白と糾のどちらを兄と見るかは学者によって意見が異なり、むしろ糾を兄、小白を弟とする方が普通である。『或問』巻8公伐斉条を参照。

〔補6〕隠公4年の左氏経文「冬十有二月、衞人立晉」を指す。難解の場所で、学者によって意見が異なる。衛は公子州吁が主君を弑して自立するや、諸侯と結んで基盤を確実なものにしようとした。しかし衛国の人々の反感を買い、ついに暗殺される。州吁の死によって君主のいなくなった衛は、その重臣・石碏の手で公子の晉を国君に立てた。これが隠公4年の経文「衛人 晉を立つ」である。しかし春秋は新たな君主が即位するとき、「某人立某」という書き方はしない。そこでこの経文がこの晉の即位を褒めたものなのか貶したものなのかで意見が分かれる。これと類似のものに尹氏立王子朝(昭23年)がある。これは周室で後継者争いが勃発したとき、尹氏は王子朝を国君に立てたことを書いたものである。しかし公子晉と王子朝はともに誰かの力で即位したのに、片方は「衛の人」とし、片方は「尹氏」という一人の名が記されるのはなぜか。呂大圭は、前者は衛の総意によって晉が即位したので「衛の人」と記し、後者は尹氏の私意で即位させたので「尹氏」と一人の名を記したとする。以下の論述も参照。
『春秋或問』巻3の衛人立晉条には次のようにある。――「〔弑君の〕賊を殺した場合は『人』と書く。しかし君を立てる場合は、『人』と書かない。弑君は天下のともに憎むものである。だれでも賊を討ち取ってよい。『蔡人 陳佗を殺す』とある。これは異邦の人でも賊を討ち取ってよいことを示している。『楚人 夏徴舒を殺す』とある。これは夷狄であってさえも、賊を討ち取ってよいことを示している。〔弑君の〕賊を討ち取った場合、それに『人』と書くのは、罪あるものを討ち取った場合に用いられる書き方である。しかし君主を立てる場合は、必ず国内に於いては先君から継承し、上にあっては周王から命を受けなければならず、勝手に君主を立ててよいわけではない。さて晉の即位についてであるが、これは先君の命があったわけではなく、したがって国内に於いて継承がないことを示す。また命を天子に請うたわけでもなく、したがって上に受けるところがあるわけでもない。ただ衛の人々が君主にしたいと思ったため、その地位におし立ててしまっただけである。人間の情から言えば、衛に君主のないこと三ヶ月、国の人々は晉を迎えて立てたのである。情としては許すことができる。しかし義をもって言えば、命を天子に受けず、先君に継承するところもない。義を失っているのである。春秋の法は、情によって義を負かさない。曰く、『尹氏、王子朝を立つ』に対しては、尹氏と書いている。この晉を立てたのは石碏である。なぜ石碏の名を書かぬのか。曰く、王子朝を立てたのは、尹氏一人の私意である。公子晉を立てたのは、衛の人々みなの望みである。各々異なるところがあるのだ。だから『衛人 晉を立つ』と書き、石碏の私意でないことを示したのである。」

〔補7〕太子申生は父である晉の獻公の嫌疑を受け、自殺したとされている。しかし経文には晉侯が殺したと書いている。本条はこれを前提に発されたもの。『春秋或問』巻11殺申生条に「晉の献公は驪姫を寵愛し、妾を正妻として扱い、その子の奚斉と卓子を嫡子として扱った。秩序は乱れてしまったのだ。だから世子を殺したのは、他でもない、晉侯じしんなのである。しかし申生も進んで弁明できず、退いては難を避けることができず、姑息な方法で父を愛し、不義に陥らせ、父親をして子殺しの名を着せさせることになった。これは申生がしたことである。申生のような人物は、死を軽んじたものと言わねばならない」とある。要するに、献公は父として息子を自殺に追いやったのだから、これは子殺しに等しい。しかし申生も姑息の計に終始し、結局は父に息子殺害の罪を負わせることになった。随って、献公も申生も、父子の恩に問題があったことになる。許止については下文に説明されている。

〔補8〕春秋時代、国君を後を継いで君主となる場合、嗣子は先君の年を終えた後、はじめて新君として認められた。例えば魯の荘公はその32年8月癸亥に死に、嗣子の公子般が後を継いだ。ところが子般はその年の冬10月己未に暗殺され、代わって閔公が後を継いだ。閔公はそのままその年を過ごし、翌年に改元する。これが閔公元年である。随って、魯の国君は実際には荘公‐子般‐閔公と継承されたわけが、正式には荘公‐閔公であり、子般は無視される。子般は先君荘公の年(荘公の32年)を終えなかったので、君主と見なされないからである。この先君の年を越えることを踰年という。ではその踰年せざる世継ぎを暗殺した場合、暗殺者は弑君(主君殺し)の罪名を被らずに済むのであろうか。もしそうなら、踰年せざる間に気に入らない世継ぎを殺せば、悪臣はいかようにも思いを遂げられることになる。これらを前提として本文は議論を進めている。晉の献公は暴虐の限りを尽くし、その臣下にも疎まれていた。そのため献公の指定した後継者・奚斉は晉の権臣里克に暗殺された。しかし献公から奚斉を託されていた荀息は、あえて奚斉の子卓を国君に立てて献公との約束を果たそうとした。ところが卓も里克に殺される。かくして荀息は自殺し、あらためて恵公が立った。左氏伝によると、僖公9年の10月に奚斉は暗殺され、つづく11月に卓が暗殺された。ならば卓は踰年せざる君である。それにもかかわらず、経文には「其の君卓を弑す」と書かれてあるのは、里克の弑君の罪を明白にするためである。――これが呂大圭の論旨である。しかし呂氏の解釈には問題がある。左氏伝によれば奚斉と卓の暗殺は先君献公の没年に当たるが、経文によると、奚斉の暗殺は僖公9年冬、卓の暗殺は翌10年春の出来事となっている。ならば卓は踰年の君であり、経文に「弑其君卓」とあるのは通常の書き方であり、なんら問題とするに足らない。ちなみに程端学『本義』はこの卓に関する一文を削除している。経文との齟齬に気づいたのであろう。

〔補9〕宣公2年の左氏経文「秋、九月、乙丑、晉趙盾弑其君夷皐」を指す。春秋学史上、最も有名な経文の一つ。三伝によると、晉の君主夷皐を暗殺したのは趙穿であって、趙盾ではないとする。しかし経文には趙盾が暗殺したと書いてある。この矛盾をどう解くかについて、宋代の春秋学者はいろいろ議論した。『春秋或問』巻15晉弑夷皐条は欧陽脩と胡安国の学説を引き、自説を展開している。結論だけ書いておくと、趙盾にはもともと弑君の心があり、それが趙穿の暗殺を誘発した。したがって趙盾が暗殺したも同然である。だから経文には趙盾が暗殺したと書かれてある、と云う。

〔補10〕討賊とは「弑君の賊を討つ」の意。斉の無知は、荘公8年11月癸未に君主諸兒を暗殺し、かわって自身が君主となった(十有一月癸未、齊無知弑其君諸兒)。しかしつづく9年春、無知は暗殺された(春、齊人殺無知)。ならば無知は即位から年を越えて暗殺されたのだから、踰年の君となる。しかし経文は「斉人 無知を殺す」と書き、「斉人 其の君無知を弑す」とは書いていない。主君を殺すことを「弑」といい、それ以外の殺害を「殺」という。すでに正式に斉の君主となっていた無知は、なぜ「弑」と書かれず、「殺」と書かれるのだろうか。呂大圭によると、斉人は主君たる無知を殺したのではなく、弑君の賊たる無知を殺したからだという(以上、『春秋或問』巻7斉人殺無知条)。陳佗(陳の公子佗)も同様で、陳の世継ぎを暗殺して自分が君主となったが、結局は桓公6年に蔡人の手で殺された(蔡人殺陳佗)。ここでも「殺」と書いて「弑」と書かないのは、陳佗を国君とみなさず、弑君の賊として殺したからである。

〔補11〕『春秋或問』巻18盗殺衛縶条によると、経に「盗」とあるのは、身分の低いものに対する書き方である(陸淳説)とする一方、暗殺者は司寇の斉豹であるが、これを敢えて「盗」という賤辞(身分の低いものに対する文字)によって記述したとする陳傅良の学説にも賛意を示している。ただ本条の陽虎は陪臣であるから、いずれにせよ経にその名が上ることはない。あるいは旧史に陽虎の名があったものを、聖人が「盗」に改めたというのであろうか。呂大圭の意図は知り難く、本条の解釈は不明とせざるを得ない。なお程端学『本義』はこの一文を削除している。

〔補12〕「受け入れを拒まれたことを意味する言葉」は「内弗受之辭(内 受けざるの辞)」。この場合の「内」は魯ではない。隠公2年経文「無侅帥師入極」に対する穀梁伝の「入者、内弗受也。極、国也」に、范甯は「内は入る所の国を謂う。ひとり魯のみに非ざるなり」と注する。内とは入られた地域、侵入された地域を指す。つまり経文に「公 某に入る」とある場合、「某は公の侵入を拒んだ」、換言すれば「公は某人に侵入を拒まれた」という意味になる。

〔補13〕公子結の専断は、経文に「遂」とあることに拠る。「遂」とは、本来の職務を果たした後、そのついでに別事を処断したことを意味する。別事は君主の命令を受けていないので、結果的に使者が専断したことになる。この件では、公子結は陳人の婦を媵すために魯国を出発したが、そのついでに斉侯・宋公と盟を行った。この場合、公子結の本務は媵であり、斉侯・宋公との盟は、魯公の命令を受けずに専断したものである。



作成日:2009/10/31
最終更新日:2009/11/01

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