第四論文補注

〔補1〕第四論文はその全てが世変説の説明に費やされている。具体的な経文を交えた解説は本文に詳しいので、ここでは世変説の基本的考え方とその構造および結論だけを述べておく。〔定義〕世変説とは、世変という概念によって春秋を理解しようとする学説で、北宋末から南宋初期に活躍した許翰にその発端を見るが、実質的には南宋中期の陳傅良によって完成されたものである。では世変とはなにか。世変とは世道の変化、すなわち時代変化を意味する。つまり、いかなる原因で時代は変化したのか、その具体的な状況はどのようなものだったのかを明らかにし、もって現代統治の具に供すること、これが世変説の目的である。〔構造〕世変説は、大枠として、文武成康の聖人の時代、伯者の活躍した春秋時代、人倫の壊滅した戦国時代を想定する。そして春秋時代は、聖人の時代から戦国時代に移りゆく過程として捉えられる。換言すれば、人間の努力次第で再び聖人の時代に戻り得たにも関わらず、現実的には戦国時代に陥った時代として捉えられる。これと同時に、春秋時代そのものにも世変は見られる。いわゆる隠桓荘閔の春秋、僖文宣成の春秋、襄昭定哀の春秋がそれである。この三種は各々、隠桓荘閔の春秋=王道の衰微、僖文宣成の春秋=伯者の興隆、襄昭定哀の春秋=伯権の衰退の順で変化する。これら三つの世変を承け、春秋を読むものは、なぜ世の人倫が破壊されたのか、その原因と推移を捉え、そこに意義を与えていくことが求められる。

〔補2〕春秋が隠公元年から始まる理由(=始隠)は、古く何休や杜預が意見を出しているが、宋代にも多くの学説が登場した。春秋は魯の旧史と目される。ならば春秋が魯の隠公元年から始まる原因は、魯の国内にあるはずである。魯を受命の王と見るか否かは別にして、魯が原因の中心でなければならない。これが通常の考えである。これに対して、周王室との関係を重んじたのが杜預である。杜預は、春秋が隠公から始まる理由を類推して、隠公元年が西周の滅亡すなわち東周初代の平王の時代に近いことに着想し、孔子はあえて東周の開始と賢君の隠公に鑑みて、隠公元年から春秋を始めた、と説明した。しかしこれには多くの問題があった。まず平王即位時の魯の君主は孝公であり、ついで恵公が即位し、その後に隠公が登場する。ならばなぜ恵公からはじめないのか。ましてや隠公を賢君と見なすのは左氏伝の勝手な妄言で、隠公は暗愚な君主であったと考えることも十分可能である、と言うのである。これらの批判を視野に収めつつ、宋代には次の学説が有力となった。それは春秋は魯を中心とした歴史書ではなく、周を中心とした歴史書である、というものである。つまり魯の隠公元年に意味があるのではなく、平王の四十九年に意味があるというのである。平王即位当初はまだ周室復興の望みもあったが、その四十九年目にしてついに全く望みが絶たれた、すなわち春秋の時代になった。だから聖人は春秋を平王の四十九年目から始めたのである。そしてそのときたまたま魯の君主として隠公が即位した。だから隠公元年から春秋を始めたのである。ではなぜ魯の歴史書を用いたのか。孔子が魯の国の人だったからに他ならず、それ以外の特別の理由は全くない。ここにおいて魯の隠公は全く無価値な存在となるのである。もちろんこの学説は非常に脆弱である。なぜならば四十九年という時限を設定するほどに、つまり春秋の終わりが獲麟という象徴的出来事を直接の原因とするほどの、積極的理由を見いだせないからである。そこで呂大圭と同じく世変説を主張する陳傅良などは、あと数年で平王は死に桓王が即位し、しかもその桓王は鄭の荘公に敗れるという失態をおかしている。桓王こそ周室の権威を完全に失った張本人である。だから春秋は平王のために四十九年から始めたのではなく、桓王を批判するために平王四十九年から始めたのだ。桓王元年から記録を始めると、桓王失政の原因を言い尽くすことができない。だから桓王失政の原因を知悉し得る平王四十九年から筆を起こしたにすぎない、という学説を提起した。その他、宋代には多くの学説が提出された。それらはいずれも魯を中心に春秋を見るのではなく、周王を中心に春秋を捉え直そうとする意欲が強いのを特徴とする。しかしいずれも批判に強く、弁護に弱い。呂大圭は本書の論述から見て、平王四十九年説を採用したものと考えられる。



作成日:2009/10/31
最終更新日:2009/11/01

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