第五論文補注

〔補1〕『春秋或問』に論述がないので詳細は分からないが、同時代の学説を参照すると次のような意味だと思われる。すなわち、周と鄭は君臣関係にある。君臣の間で人質の交換は道理としてあり得ない。その点を衝かない左氏は理に不明だ。宋の宣公は弟の穆公に位を譲ったため、穆公亡き後、宋では混乱が起こった。「人を知る」などとんでもない。君主を諫めるには道理に基づき礼に従うものでなければならない。兵の威力を借りて君主を諫めるなど悪辣きわまりない。「君主を愛した」行為とは到底言えない。趙盾は弑君の賊を討たなかった悪人である。その罪は国境を越えると否とになく、討賊を討つと否とにある。趙盾が国境を越えるか否かを問題にした左氏は極めて道理に暗い。

〔補2〕公羊と穀梁のいずれにも「以地正國也」とある。「地」は趙鞅の逃亡した晉陽を指す。「帰る」の「帰」は特別な意味を持っている。君主や大夫が国外に逃亡した後、自国にもどる場合、経文は四つのかき分けをする。帰、復帰、入、復入である。この四つのかき分けにはそれぞれ善悪を含む区別があるとされる。例えば「歸者、出入無惡」(桓公15年公羊伝)、「曰歸、易辭也」(桓公11年穀梁伝)というように、「帰という字が経文に書かれてある場合、君大夫が国から出たときにも、国にもどったときにも、ともに悪事はなかったことを示す」という意味になる。つまり経文に「帰」という字が書かれてあれば、倫理的にその君大夫を善だと認めたことになる。そこでこの趙鞅の経文だが、彼は晉陽で叛乱を起こし、その地の兵を率い、君主(晉侯)を攻め立て、(趙鞅にとっての)君側の奸を排除したと言われる(公羊)。しかし、趙鞅は晉陽で叛乱を起こした。つまり君主に刃向かったのである。それにも関わらず経文には「帰」の字が用いられている。なぜか。公羊と穀梁はこれに対して、「君側の奸を排除するためには、独断で兵を用いても構わない」と言う。これは宋代の学者には認めがたい議論である。そのため呂大圭はこの公羊伝と穀梁伝の学説を誤謬と捉え、後世の逆臣はこの公羊や穀梁の「独断で兵を用いても構わない」という文句を根拠として、自分の欲望を遂げるために君主に反逆したのだ、と切り返した。

〔補3〕公羊伝によると、外交の任に当たる大夫は、国君からの任命は受けても、常辞(決まった外交辞令)は受け取らない。なぜなら国際関係は刻々と変化し、それにともなって社稷と国家の利益も変化するからである。したがって外交の任に当たる大夫は、時事の判断に従い、適切な外交辞令を独断で発言することができるという。しかし宋代の学者は、これを非常に危険なことだと考えた。なぜならこの公羊伝の解釈を逆手にとって、外交の任に当たる臣下が、外国で好き勝手な振る舞いをする可能性が生じるからである。したがってこのような不適切な発言は、春秋の解釈として不当だということになる。

〔補4〕本文は桓公11年の経文「九月、宋人執鄭祭仲。突歸于鄭。鄭忽出奔衞」をつづめたもの。鄭の荘公没後、その重臣・祭仲は宋を通りかかった。宋は祭仲を捉え、宋に都合のいい公子突を鄭の君主にするよう脅迫した。その意を受けた祭仲は、鄭に帰ると、先君の後継者・公子忽を放逐し、公子突を君主に立てた。左氏伝などは祭仲の権臣ぶりを強調し、宋代の学者も概ねそれを是認する。したがって通常は祭仲の悪逆振りを示す事例として、この経文は理解される。ところが公羊伝は逆に祭仲を激賞する。これはいわゆる「祭仲の権」とよばれるもので、公羊によると、「権」とは「経(常の則)」に反しながら、結果的に善となるものを指す。つまり通常守るべき行いを敢えて守らないことで、結果的に通常守るべき行いを実現させることを意味する。祭仲はあえて君の後継者(公子忽)を放逐したが、後日、たしかに公子忽を鄭の国に国君として迎え入れることに成功し、かつ鄭の国も保全した、祭仲は権を知っていたのである、と。呂大圭はこの論理を全否定し、この公羊の解釈を逆手に取り、君主の配置を自在に行う臣下が現れた、だから公羊の学説は間違っている、と切り返した。なお宋代の学者も「権」を認めるものは多い。しかし「権」は実施不可能なくらいの厳しい制約が科されている。



作成日:2009/10/31
最終更新日:2009/11/01

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