春秋或問跋

春秋を伝えるものは幾百家、それらの学説のほとんどは褒貶賞罰(*1)を主としたものである。三伝がこれを提唱して以来、多くの学者が賛同したからであろう。しかし朱文公(*2)だけはそう考えなかった。今でも門人の記録によって、その概略を窺い知ることはできるが、残念なことに、まとまった書物にはならなかった。

潮州学官の呂先生(*3)は同地の生徒に学恩を垂れられたが、そのとき春秋について質問するものがいた。先生は『五論』を示されたが、聞き知らぬ学説とて、みな驚愕するばかりだった。そこで成説を尋ねたところ、先生はまた『集伝』『或問』の二書を出された。それらは文公の説に基づきつつ、さらに発展させたものだった。『五論』によって端緒を開き、『集説』(*4)によって議論を尽くし、さらに『或問』によって難点の解明に務めたもので、こうして春秋の旨は明白になったのである。ああ、孔先生の心は文公によって明らかとなり、文公の論は先生によって完備した。ならば先生もまた世教に功あるものである。

夢申は先生に教示を受けたものである。あえて本書を秘蔵することなく、朋友と相談の上、出版することにした。本書が広く読まれることを願う次第である。時に宝祐甲寅の正陽の月(*5)、門人元公書院堂長の何夢申が敬しんで跋文を書す。



訳者注

(*1)褒貶賞罰説については第一論文を参照。
(*2)朱熹のこと。朱熹の春秋学説は『朱子文集』『朱子語類』に散見するが専著はない。
(*3)呂大圭を指す。呂大圭は科挙合格後すぐに潮州の学官(教授)になった。
(*4)すぐ上の『集伝』を指すと思われるが、あまりに露骨な誤植なので、別著の可能性も否定できない。
(*5)宝祐二年(西暦1254年)四月のこと。


作成日:2009/08/01
最終更新日:2009/08/02

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