春秋五論序

『春秋論』五篇全一巻。一に曰く、夫子の春秋を作るを論ず。二に曰く、日月褒貶の例を弁ず。三に曰く、特筆。四に曰く、三伝の長短を論ず。五に曰く、世変(*1)。宋の吏部侍郎・興化軍知事(*2)、武栄の呂大圭圭叔の著したものである。『五論』は文藻豊富にして厳正、春秋の大旨は本書に完備している。

圭叔は淳祐七年(*3)の進士。まず潮州教授を授けられ、のち贛州提挙司幹官に改められた。任期満了で袁州・福州の通判に遷り、朝散大夫に昇格。行尚書吏部員外郎、兼国子編修・実録検討官(*4)、兼崇政殿説書を経由した後、地方に出て興化軍の知事になった。同地では、いつも中下層民の税金滞納を肩代わりしていた。

徳祐の初年、知漳州軍節制左翼屯戌軍馬に移った。任地に赴く前、たまたま元の兵が到着した。沿海都制置の蒲壽庚は州を挙げて投降し、圭叔にも降伏の署名を求めた。圭叔が拒否すると、殺そうとした。たまたま管軍総管の中に圭叔の弟子がおり、圭叔を抱えて脱出した。圭叔は服を変えて海島に逃げたが、壽庚は官職を餌に投降を誘い、〔人を遣って圭叔を〕追跡させた。〔壽庚の使者が〕姓名を尋ねても返答しなかったので、圭叔は殺された。これ以前、圭叔は著書を一室に隠していたが、このとき焼き捨てられた。『五論』と『読易管見』『論語孟子解』(*5)は、学者の間に広まっていたため、幸いにも世に残った。しかし惜しむらく、『管見』などの書物は既に散佚し、現存するのはわずかに本書のみである。

圭叔は若くから学問を好み、郷里の先生である潜軒王昭に師事した。昭は北溪陳淳の弟子であり、淳は学問を晦菴(*6)に受け、その高弟と称された。その来歴から、人は彼らを温陵截派と言った。ああ、当時にあって道学を批判した人々は、いつも道学を迂闊無用の学だと非難した。しかし宋の社稷が滅亡せんとするとき、人は争って北に向かったが(*7)、圭叔のみは姑息な投降を求めず、甘んじて海島に遁れ、己の命を捨てることさえ憚らなかった。まことに大節凛然と言わねばならぬ。ここに鑑みれば、道学が人に背き国に叛かぬこと明白である。なんと感嘆すべきことではないか。武栄は現在の泉郡南安県に当たる。唐の嗣聖年間(*8)、県を武栄州に改めたことがあったので、こう言うのである。圭叔は県の樸兜郷大豊山の麓に住んでいた。そこで学者は圭叔を樸郷先生と言った。

康熙丁巳の年(*9)、納蘭性徳容若が序文を識す。



訳者注

(*1)『通志堂経解』本文に徴する限り、四と五は順番が逆である。以下、納蘭性徳は現存資料を持ち寄り呂大圭の伝記を巧みに組み立てているが、意味不鮮明の箇所も少なくない。伝記資料としては附録3の『閩中理學淵源考』所伝の方が正確である。
(*2)曖昧な記述だが、他の資料に徴する限り、呂大圭が吏部侍郎と興化軍知事を兼任したことはない。
(*3)西暦1247年。
(*4)原文は「兼国子編修・実録検討官」。恐らく「国史編修官・実録検討官」のことと思われるが、国子監関係の部署につき、さらに国史編修官・実録検討官(もしくは国史編修官になり、さらに実録検討官)になった可能性もある。
(*5)正確には『読易管見』『春秋或問』『春秋五論』『論語孟子解』であるが、『閩中理学淵源考』巻三十三はこれに『易経集解』七巻を加える。『読易管見』については『経義考』巻三十八所引胡一桂の評に大綱が説明され、『易経集解』の名は『閩書』呂大圭伝にも見える。
(*6)晦庵は朱熹の号。
(*7)元(モンゴル)に帰順したという意味。
(*8)武則天の聖暦二年(西暦699年)を指す。『旧唐書』地理志(泉州中)に「聖暦二年、分泉州之南安・莆田・龍溪三県、置武栄州(聖暦二年、泉州の南安・莆田・龍溪三県を分け、武栄州を置く)」とある。
(*9)康熙十六年(西暦1677年)。


作成日:2009/08/01
最終更新日:2009/08/02

inserted by FC2 system